◇永遠なる旅路◇
永遠なる旅路 人生は意味も進路も自分で選ばなくてはならない。 人間の蒙昧と愚鈍さは罪を生じさせる。(ヴォルフガング・ステカウ) 父は生前、生まれ育った故郷、霊巌を懐かしみ、涙しては望郷の想いを切々と訴えた。一九七三年、私は父母と共に初めて祖国の地、全南霊巌を訪ねた。父母にとっては四十六年ぶりの生涯初めての帰郷であった。その翌々年、父は「もう一度郷里に帰り、田んぼを耕し静かに暮らしたい。」と言い残したまま旅立った。父の魂は永遠なる故郷霊巌の山河に帰っていったのだ。一九二八年、十六の時に父母と別れ、故郷を後にした日本での父の生涯は辛酸を舐め、血を吐くような過酷な労働と生活苦との闘いの一生で終わった。 日本の植民地時代の苦渋と屈辱に満ちた時代から、戦後の飢えと貧困の中の、差別と蔑視と偏見との闘いは、避けられない運命であり受難であった。私は父母共々、祖国の苦痛と苦悩を分かち合って運命を共にし、死線を彷徨いながら乗り越え、難行苦行の末に生きてきた。 一九八二年私は「全和凰画集」を七年の歳月をかけて発刊した。その時「全和凰画業五十年展」を企画し、東京・京都・ソウル・大邱・光州と巡回展を主催した。 光州で全和凰展が開かれた時、出会った一盲人の訴えを聞いたことから、光州盲人福祉協会建立の事業を始めることになった。光州事件のあった暗い年の事である。人身は荒み、弱者に光が届かぬ時代であった。祖国の福祉には余裕がなかった。私は全身全霊を注ぎ、光を追い続けて献身した。完成までに七年の歳月が費やされた。遠い道のりは困難を極め、和が大事であること、思いやりと労りが大事であることを説いて廻った。支援と協力は見事に結実した。湖南人の優しさと、粘り、談合は友愛の華となりヒューマニズムを麗しく開花させた。人間勝利の社会、豊かな福祉社会の具現化の為に在日同胞と郷土が連帯という絆で結ばれ、血を分け合った兄弟であることを確認しあった事業であった。多くの人々に崇高なる精神世界の深みと豊かさを知らしめ、英知の素晴らしさを光り輝かせた。 そこに同胞との出会いがあった。そして強い絆で結ばれた祖国があった。人生とはなんと麗しく楽しいものであるか。生きて生かされて今日この道を歩く喜び。「共に生きて、共に仕事が出来る」この喜び。この喜びを与えてくれた盲人達の福祉が向上し、自立の精神が燃え続けることを強く祈念する。 運命の不思議さは続く。私は一九九三年、そして一九九九年の二回に渡り三十数年に渡って蒐集した美術品を光州市立美術館に寄贈した。父母の故郷であることも縁であったが、当初これらの美術品は私が高校時代までを過ごした秋田県に寄贈する計画であった。しかし五・一八民主抗争を体験し、民主主義の為に多くの血を流した光州ほど相応しい場所は他にないと考えた私は寄贈を決断した。結果、収まるべき所に収まった事は幸いなことである。寄贈された美術品はあわせて六百八十三点。内容別に見ると、在日作家が十二人三百二点、韓国人作家が七十一人二百六十四点、その他外国人作家が四十五人百十八点となる。 寄贈作品を通して特に在日同胞の人権問題を深く理解し、彼らの体験した恨多き歴史を知っていただける事だろう。在日作家達の作品を見るとき、差別と蔑視の中で生きてきた在日同胞の歴史と私自身の人生とが重なり合う。そこには涙があり、叫びがあり、希望を求める想いが凝縮されている。それは絶望の中から生まれた強く平和を求める『祈り』であり在日同胞のみならず、世界人類共通の願いであると思う。私は真摯なるこのメッセージを伝え、共感を求めることがコレクションの真の意味と意義を認められ、その存在は永遠に輝くことだろうと信じている。 一九九三年に「河正雄コレクション」記念室が開設された。「在日の文化を守り伝えること。私達在日同胞の生き様と歴史的な『恨』を正しく理解し、二十世紀の痛みを癒す機会となることであろう。」 流れ流れた歳月、重ね重ねた歳月の旅の果てが、光州市立美術館「河正雄コレクション」である。運命といおうか、出会いの宿命といおうか。幸運であり、名誉であり、誇りである。血と汗と涙の凝縮されているその作品群から、強い啓示を受けることであろう。その芸術の世界は、まさしく祖国と在日同胞との深い関わり合いの貴重な記録であり、歴史であり、文化遺産である。 その「祈り」に満ちた作品の全てから、偉大な芸術の意義を見いだしたとき、私は深い感動と感激を味わいその芸術に誇りと尊厳、栄光を抱く。 「河正雄コレクション」は新たな出会いを求め、未来に向かって力強く歩み始めた。多くの人々と共に語らい、多くの人々から愛されることであろう。またそうあってほしいと心から願ってやまない。 |