◇コッパラム(花を呼ぶ嵐)◇

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コッパラム(花を呼ぶ風)

 ポルムナル(旧暦の小正月の事)、栄山江(海産物ワカメは柔らかくしなやかと名高い)の羅仏島(五百羅漢の聖域、赤レンガの生産地)に霊巌郡の村々から善男善女が集まった。「農者天下之大本」と書かれたノボリを先頭に農楽隊がにぎやかに奏で舞いポルムナルを祝う霊巌郡風俗競演大会が開かれた。

 主催者が祝辞を述べた。「この催しは官主導ではない。住民の自発性と共同体意識で行われる祝祭である。我々の故郷の美しさ、素晴らしさを考える地方地域中心のポルムナル行事として定着させたい。」と強調された。

 樹齢数百年のケヤキの神木の前で壇山祭が執り行われた。東方(新羅を指す)に牛肉、西方(中国を指す)に豚の頭、南方に犬肉、北方に羊肉、中心に馬肉を供えた祭壇でのチェサ(祭祀)である。トルマギ(祭礼の礼服)で身を整えた導守が神域に身を伏して五穀豊穣を祈り、神に感謝を捧げた。幸せよ来い、悪よ去れと空には無数のヨン(凧)が舞っている。この身と大地は一つであると未来に夢と願いを込めるポルムナルの凧揚げ大会は縁起物だという。凧のスローガンには、「2002年ワールドカップサッカー開催」「独島(日本では竹島という)は我が島」と書かれ、韓国人の一番の関心事が象徴的に示されていた。霊巌一帯は国策である大仏工業団地の造成で沸き立っている。中国を射程に入れた西海岸貿易基地としての発展ぶりは、人口数万の霊巌郡がこの十年以内に三十万都市の計画を立てている事からも展望されて頼もしい限りだ。

 豊年と無病息災、萬福を祈願する霊巌のポルムナル民俗ノリは昔懐かしい郷愁を誘った。私が育った秋田の小正月行事と何となく似ていたからだ。綱引き行事やドンド焼き、生保内の「ナロカナロヌカ」と唱えて稲束の火を廻しながら田畑を廻って厄病厄運を祓う行事にしろ、秋田で行なう祭そのままであった。私の二つの故郷は全く同じような行事で小正月を祝っていたのだ。その日は春一番の風が吹き荒れ、凧はうなり勢い良く空に舞った。韓国人は春一番の風が吹くことをコッパラム(花を呼ぶ風)が来たと喜ぶ。この日、霊巌に春が来たことを私も喜び祝った。そしてこのコッパラムが秋田の空に一日も早く届くことを祈った。私は春遠く雪深い秋田に想いをはせていたのだ。

 その時私は厚生省の「朝鮮人労務者に関する調査(秋田県)」(一九四六年)の名簿を調べていた。田沢湖町田沢の先達発電所の堀内組三百七人の徴用工の本籍欄の中から十二名者もの霊巌出身者を捜し出した。退所事由欄に逃亡者が三名、病気送還者が一名、残りが「終戦ニ付送還」と記載されていた。もう五十数年にもなることだから縁故者はいても本人は死亡、もしくは所在はわからないだろうと思ったが、私は1999年2月18日、その一欄表を添えて霊巌文化院(公民館のこと)に問い合わせた。「金喜奎院長任。新年を迎えご健康とご多幸をお祈りします。霊巌出身者一二名について本籍地に本人もしくはその縁故者が居住しているかどうか所在の確認をお願い致します。確認が出来れば三月初めに霊巌を訪問し調査をしたいので面会面談が出来ますようよろしくお願いいたします。」と手紙を出した。調査を依頼したのは、院長が私の母方の従兄弟に当たり手早く気軽であった為だ。

 一週間して「兄任、栄山江三湖面に曹四鉉氏一名のみが生存しており他は判りませんでした。」と院長から返事があった。展開の余りの早さに目の前がクラクラした。私はそれまでこの世に先達発電所の徴用工の生存者が現存しているとは思ってもいなかった為だ。ましてや私の故郷の霊巌に、現実に生きている人が居たとなって驚きを通り越して幻か奇跡ではないかとも思った。

 私はその結果を野添憲治、西成辰雄両氏に報告し「゙四鉉氏に会いに行きませんか」お誘いした。すぐに野添氏から「私が伺います」と返事があった。秋田朝日放送報道制作局伊藤玲子記者からも「一昨年より朝鮮人強制連行の取材をしておりますが思うように進まず昨年は番組化を見送りました。踏み込んだ取材が出来なかった事を今更ながら反省しております。三月二日には霊巌での面会を撮影させて頂ければと思います」と後を追うように連絡があった。

 伊藤記者は私が進めてきた姫観音や田沢寺の無縁仏等、一連の報道を担当し深い関心を示していたので良い機会であると思った。我々が光州入りする前日、三月一日付光州日報が゙四鉉氏について社会面トップ記事として掲載した。霊巌文化院からの報告で記者が取材したようだ。地元ではこの事実は知られていなかったようで関心が高かった。記者は全羅南道出身者二九九名全員の名簿を発表して生存者を捜してみるからと言って名簿の提供を私に求めた。その報道の結果、生存者ば四鉉氏一名のみであるらしいと判明した。三月一日付の記事の全文を紹介する。

 「三・一節八十周年」癒されない日帝強制徴用の傷跡。

 秋田発電所307名の内299名が全羅南道の人。霊巌郡三湖面゙四鉉翁、死ぬほどの苦労で腰を負傷し送還。僑胞二十年追跡、日本のTV取材。

 『一日十二時間以上重労働を強いられました』霊巌郡三湖面の゙四鉉翁(86才)は太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)日帝により強制徴用され日本の秋田県水力発電所の工事現場に連行された。

 『夜中寝ている所に面の職員らが押し込んできて何の説明も無しに連れて行かれた。面の事務所で一夜明けてから徴用された事実が分かった。』当時31才で年老いた親と子供を持っていた彼は、彼が住んでいた霊巌を始め務安、長城、潭陽などから徴用されてきた百余名と共に麗水に移され船の貨物室に乗せられ日本に渡った。『工事現場には朝鮮人が300人余りいた。事故で多く死んだり、我慢できず逃げた者もいたようだが全て隠されてよく分からない。』

 一年もの間、強制労役させられた彼は賃金を一円も貰えず腰の負傷という傷跡を抱えたまま解放を迎え、母国に送還されてその屈折された人生に対し未だに何の報償もなく故郷で暮らしている。

 そして五十四年の歳月が過ぎた今になってヒョッとしたら葬られてしまいそうだった。秋田県の朝鮮人に対する強制労働の実態を二十年の間、追跡してきた一人の在日僑胞が生存者である゙翁に会うために二日、日本側の調査団と朝日TVの取材チームと共に霊巌に来る。

 在日二世である河正雄氏(六十才、在日韓国人文化芸術協会長)光州市立美術館の諮問委員でもある彼は太平洋戦争当時、秋田県に住んでいた証言を基に、七十年代中半からいわば徴用朝鮮人の実体を追跡し始めた。秋田県の県民もそうであったが僑胞の間でもそんな事実はなかったと否認されたが、粘り強く究明作業をやって来た河氏は建設現場に近いお寺で、相当数の名も無き無縁仏を発見し、これらが徴用朝鮮人の犠牲者である事実を明らかにして十年前慰霊碑を建てた。

 そして昨年六月、河氏は厚生省が作成した朝鮮人強制労働者三百七名の名簿が載っていた公文書を手に入れた。『名簿を調査した結果二百九十九名が全羅南道の人で、その内十二名が両親の故郷である霊巌の人である事が分かりました。』それ以降、河氏が文化院に生存者の把握を依頼して捜し出した人が゙四鉉翁である。

 二日、゙翁の証言を聞くため霊巌に来る。河氏は『歴史を事実のままに認定し、反省してこそ二十一世紀の両国の関係がより発展するだろう。』と話していた。

 霊巌から゙四鉉翁の自宅がある三湖面へは五十キロ、私の母方の従兄弟も加わりその案内で三湖面に向かった。三湖面は木浦に近い栄山江に面していた。大仏工業団地が目と鼻の先、対面にはハンラ造船所の巨大な施設が、山上には近代ホテルが建っていた。三湖面だけは開発から取り残された片田舎で、さびれた漁村の入り江にあった。゙四鉉翁の案内で自宅に着いた。

 実は自宅に到着するまでの道程は決して平坦ではなかった。゙四鉉翁が我々を自宅に案内したくない、木浦市内でなら会うと言うので案内役の従兄弟の説得が一時間以上にも及んだ為である。

 一昨日光州日報の記者が訪問し取材されたが、思いがけぬ五十数年も前の事なので驚いてしまった事、他にも徴用で行った人は沢山いたはずなのに何故自分の所にだけ来るのかと言うのである。しかし本音は違っていた。周囲は開発で立派な家を建てて暮らしているが、自分の家は貧しく草葦きの土造りの昔の小さな家で見せるのは恥ずかしい。とても日本から来た人達に見せられないと言うのである。その交渉の間、何度も会いたくないと言っては帰ろうとした。「家を見に来たのではない。今どんな生活をしているのか、ありのままの話を聞きに来たのです。」と説得し、やっとの思いで交渉が成立したのである。

 私は「゙さん、私の父母もあなたが苦労された秋田県の先達発電所の工事現場で一緒に仕事をしました。今は父は亡くなりこの世にはいませんが゙さんは元気でいらして、お会い出来て嬉しいです。」と手を握り肩を抱いた。腰が曲がり骨だけのような小さくなった体、農作業の為に荒れたザラザラの手肌、表情がとても柔和でかわいらしい老人であった。その時、私は二十数年前に亡くなった父の面影を見たような錯覚に陥った。ここにいる人は私の父ではないかと思うほど面影が似ていたのである。

 「遠く日本から来た皆さんに、入りなさいと言える部屋もない。本当にすまない。どうすれば良いのか。」と落ち着かない。そこで我々縁側に座ってお話を伺う事にした。「酒一杯ご馳走出来ず、もてなす物が我が家には何もない。飲みかけの焼酎でも一緒に飲みましょう。」と酒を注がれ我々は乾杯したのである。

 野添氏が゙さんに「日本はあなたや家族に沢山の迷惑をかけました。お詫びします。」と言うと、ようやく落ち着いたのか打ち解け、記憶を辿るように語ってくれた。

 「今日は先達で痛めた足腰が痛くて病院に行こうと思っていたが、皆さんが来るというので行けなくなってしまった。一九九四年七月のある夜の事、十時頃に面の役人が来て明朝面事務所に来るように言われ行ったところ、郡西面からは十名以上が集まっており、そのとき徴用だという事が初めて分かった。家には老親や妻子が三人いるので、自分一人ならどんなにしても生きられるが、農業をやっていても米を食べられる境遇ではなかったから、残される家族の事を思うと涙が出て仕方がなかった。実は以前にも徴用に取られ、平壌で働いた事があったが今回は日本だというが、何処へつれて行かれるか知らされない為、不安だった。栄山浦から船に乗ったが麗水には羅州や宝城などから徴用されていた三百人もの人達がいて一緒になって釜山に向かい、下関に着いた。汽車とトラックを乗り継いで、先達に連行され、七十人ほどの朝鮮人がいる野坂組に収容された。夜明けから日暮れまでの十二時間労働で、自分は体が小さかったので食事当番もさせられたが、工事資材や土の運搬で危険な仕事ではなかった。しかし除雪の仕事は辛かった。私は腰を痛めてしまった為に事務所で仕事を見るようになった。しかし他の職場では劣悪な労働条件で逃亡する人が後をたたなかった。殆どの人が生保内駅で捕まり、連れ戻されて殴られた。行方の分からなくなった人も多くいた。先達では最初はお米のご飯を頂いたが、終戦間近かになって、トウモロコシやジャガイモ、雑穀などになり、食糧が不足し腹が減ってたまらなかった。足腰が痛かったので自分はいつ死んでも良いと覚悟をしていたが、夢の中に田舎に残してきた家族が出て来て食事も喉を通らなかった。可哀想だったのは高輿出身の十五、六才の青年が鉄骨の仕事で怪我をして亡くなった事だ。解放後、私は田舎に帰ったものの田畑は荒れ、作物は出来ず、家や生活が破壊されて、先達では煙草や食事代程度の日当は受けたが、退職の際に、一銭も貰えなかったので先達にいる時よりもなお苦しかった。人間として日本人は正直で良いと思うが苦しみ、困っている我々に補償をして欲しいと思っている。」と初めて語気を強めた。光州日報の記者が゙さんを取材に訪れた時に日本を批判し先達での苦しかった事を話したので、遠来のお客様に余り強く言わないようにと忠告を受けていた事を事前に知っていた。私ばさんの抑えきれない思いを前にしてただ静かに聞くよりなかった。

 「今まで青瓦台に補償を求めてきた。ソウルの集まりやアメリカで告訴し裁判もしてきたが、その裁判の負担費用の工面が出来ない。」と言い終えたところに郵便配達人がやって来た。゙さんが配達された郵便物の封を切ったところ、健康保険の請求書が入っていた。保険料は月々三万三千四百十ウォンであった。この保険料さえ自分の力では払えないので息子に払って貰っているのだと言った。先達に行って自分が生きた場所を探してみたい。一緒に働いた青松さんや和田さんにも会いたいがお金も無く、この体では行く事も出来ないと淋しく訴えた。

 「先達には良い事も大変な事もあった。私の第二の故郷であり懐かしい所です。皆さんが霊巌まで訪ねて下さり嬉しかった。」と涙ながらに語ってくれた。私ばさんの話を聞き終えて幸薄い人生ではあったが私の父の早逝を思うと、どんなに辛くても今生きている事が、長く生きた人こそが幸せなのではないかと思った。「私は今でも父が生きていればどんなに良いかと思っています。」どさんに言ったら「私もそう思う」どさんは私の手を固く握りしめて頷いてくれた。

河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる」明石書店(2003.3.25)



発電所       河川名       使用開始年月  最大出力(kW)   年間発生電力量(MWh)
生保内発電所  玉川・先達川    昭和15.1     31,500        118,057
神代発電所    玉川         昭和15.2      19,700        153,769
先達発電所    先達川       昭和23.12      5,100         33,456
夏瀬発電所    玉川         昭和28.1      20,000        83,409
田沢湖発電所  玉川         昭和33.12.26   7,300         25,787

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