◇キューポラの街の原風景(映画・キューポラの街に関して)◇
キューポラの街の原風景 映画「キューポラのある街」には当時息づいていた人々の人情が、色濃く描かれている。在日朝鮮人の父と日本人の母との間に生まれた、ヨシエとサンキチ姉弟の金山一家は、吉永小百合演じるジュンの家と同じように貧しい。その貧しさを乗り越え朝鮮人の家族との触れ合いを絡ませ、強く、明るく、逞しく、のびのびと育つ子供達が生きる良い時代が描かれている。鋳物工場や荒川の土手など、作品に描かれた数々の映像には川口の懐かしい原風景があり、川口で生きてきた幾年月が、いつしか私の故郷になったということだろう。 埼玉の表玄関は川口である。在日同胞の密集地といえば阪神では生野や西成、神戸の長田、東京では足立区や荒川区だがキューポラが立ち並んだ鋳物の街、川口にも鋳物工場(最盛期約700社があったが今は100社ほど)で働いたり鉄屑回収業を営む朝鮮人が多く住んでいた。1950年代、朝鮮戦争特需で日本は高度経済成長の波に乗った。川口の鋳物産業はその恩恵を受け発展し、社会の断面を映した街である。(現在川口市内には外国人登録者は1万人を超えているそうだが、当時は1000人程度で、その殆どが在日朝鮮人であった。) 1959年、高校卒業を機に18年間の秋田での生活に私は別れを告げた。上京して川口に縁を結んだのも、母の手伝いでヤミ米を運んだ得意先が多くあった事からだった。その時川口駅前では鋳物を運ぶ荷車を馬が引いており、馬糞があちこちに落ちている有り様だった。 葦が茂り民家が少なかった荒川沿いの芝川河岸に、マッチ箱のような住まいで私は生活していた。上流で大雨が降ると、すぐに溢れる「洪水」の川縁である。そこはキューポラ(銑鉄溶解炉)が林立する鋳物工場地帯であり、キューポラの赤い炎が燃える吹きの日は騒音と振動、硫黄の臭いと煤塵が立ちこめる悪烈な環境であった。経済力の無かった私にとっては、そこが唯一生きることの出来る場所であった。当時、川口の鋳物を支えたのは「金の卵」と言われた、高校進学が不可能な、東北地方からの集団就職でやって来た若者や、外国人(特に朝鮮人)の労働力が七、八割方であった。 秋田に居た時、生保内(現田沢湖)駅で集団就職列車で上京する同期生や同窓生達の見送りをした記憶がある。その時の友人の顔が懐かしく思い出される。 その年の秋に襲った伊勢湾台風のため荒川、芝川が氾濫し洪水が起こった。我が家も押入の上段まで浸水(その翌年もまた台風の影響で浸水)し泣かされた。975人の在日朝鮮人が初めて北朝鮮に帰還するようになったのはその年の年末のことである。当時、画家になる夢を共に語り合った名古屋のK君が北朝鮮に帰国することとなり、別れのために上京し我が家に泊まった。K君からは無事に帰国したと一度、連絡があったが、その後は音信が途絶え今だ消息が掴めない。 芝川の家から目黒の武蔵小山にある電気配線器具の会社に通い、設計とデザインの仕事をした。日給260円の賃金で夜学(日本デザインスクール)に通った。交通費を削り、食費を削る生活で栄養失調と過労から来る眼の障害で入院する羽目になってしまった。人生最悪の境涯で前途が暗闇の中にあった。失明は免れたものの失業し、伏せっている所に台風の被害にあった。弱り目に祟り目の所へ、ボートで川口の朝鮮総連の人達が尋ねて来てくれ、お米を義援してくれた。このような苦難の時に、手を差し伸べてくれる同胞の情けをありがたく思った。その時、朝鮮総連の人から北朝鮮への帰還を勧められた。 1961年、私は一切を捨てるほどの挫折から、日本での生活の展望と自信を失い、北朝鮮での新しい生活に全てを賭けてみようと単身、北朝鮮への帰還船での「帰国」を決心した。K君の事もあったが、天国だという北朝鮮の宣伝に乗せられて憧憬を抱いてもいたのだ。私は帰国の手続きのため川口の朝鮮総連に出向いた。ところが「帰るのはいつでも出来る。残って川口の同胞達の権益のために働いてほしい。」と慰留され、そこに務めることとなった。地域の同胞のための信用組合(金融機関)、銅鉄商協同組合、納税組合、衛生組合を結成し商工会を創ろうという仕事の手伝いであった。またソビエトや中国、そして北朝鮮から鋳物の材料である銑鉄を輸入し、組合員や川口鋳物協同組合に販売をもした。その時代需要が多く引く手あまたの好況で、同胞達に喜ばれる仕事が出来たのでとても嬉しかった。 その年の秋のこと、丸めた冊子と帽子を握りしめ、ベージュのレインコートに身を包んだ男性が事務所を訪れた。顔色は黒ずんで見え、髪はボサボサ、構わない身なりは今にして思えば刑事コロンボのようであった。「私は浦山桐郎という映画監督です。この度、川口を舞台にして児童文学作家早船ちよの小説『キューポラのある街』を映画化したいのです。在日朝鮮人の問題も川口で生きるありのままの姿を等身大で伝えたい。このシナリオの中で朝鮮人の生活情緒と違うところを監修してほしいのです。そして撮影の際には川口の朝鮮人達の協力をお願いしたい。」とシナリオを置いていった。後日、監督が訪れた時も前回と全く同じいでたちで静かに話されたが、その姿にはどことなく健康さを欠いているように思われた。(監督は、この十数年後に亡くなられた)その時監督は鋳物職人が集まる「ハーモニカ長屋」の赤提灯などに足を運び鋳物の世界を取材した話をされ真摯な人柄を感じた。弱者、特に在日朝鮮人に対して以心伝心、温かな視線が感じられ、私には好ましく思えた。 何回かのミーティングを重ね、川口駅前で北朝鮮に帰る家族との別れのシーンの撮影が行われた。最終電車が行ってからの寒い深夜の撮影ではあったが、エキストラとして川口の同胞達が100名以上も集まった。共和国の旗を振り「金日成将軍の歌」を合唱しているところに、ジュン役の吉永小百合が見送るために、白い息を吐きながら駆けつけて来る。その時、16歳の若さだった吉永小百合が、カメラの前に立ち止まりアップになる。カメラを見つめ、視線を逸らさない真珠のような瞳、その澄んだ瞳はどんな宝石よりも輝いて美しく見えた。 川口駅近くの陸橋での撮影は切なかった。サンキチと父が乗った新潟行きの列車を見送る場面である。列車の窓から身を乗り出して手を振るサンキチと父へ、力を込めて別れの手を振る吉永小百合。私の手まで力が入ってしまうような名シーンであった。 その年、浦山監督のデビュー作「キューポラのある街」は吉永小百合がブルーリボン賞主演女優賞に輝く栄誉を得た。「キューポラのある街」は、その時代と社会を映した日本の名画として今も輝いており、私の青春の記憶としても今なお鮮明に記憶されている。 吉永小百合は今までに100本以上の映画に出ているそうだが「キューポラのある街」は代表作、これを超える作品はないという。北朝鮮に帰る人達との別れのシーンが心に強く残っており、今も帰った方々がどうしているのだろうかと、その安否を考えるのだそうだ。 私もキューポラのある街で、在日と祖国の狭間の中で生きた境涯と人生を振り返りながら、当時帰った10万近い在日帰還者やK君のこと、日本人拉致問題と核開発、今後の日朝問題の行く末に心を痛め、不安を抱いて考えている事が多い日々である。 民団フェスティバル実行委員会・語り継ごう「在日」を!(2002.11.19) |