◇あすなろ忌◇

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あすなろ忌

 私は短歌と万葉集の研究で足跡を残した、土屋文明の群馬県立土屋文明記念文学館(群馬町)を見学した。そこには群馬県縁りの文学や文学資料があり、13のコレクションがあった。その一つに詩人崔華国の資料が公開されていた。「崔華国はいうならば色のことばだ。この七色のことばを焚き合わせて燃えているのが崔華国の詩なのである。」と詩人荒川洋治が、そう解説されていた。

 崔華国(1915年―1997年・本名 崔泳郁)は韓国慶州生まれ。彼は1955年、群馬交響楽団を取り上げた今井正監督の映画「ここに泉あり」を見て感動し、「高崎市に芸術活動の拠点」として高崎市本町で1957年、クラシック純音楽喫茶「あすなろ」をオープンした。(「あすなろ」は、その後道路拡張に伴い鞘町に移転した。)

 1957年に「あすなろ」で始まった生演奏による「音楽の夕べ」を260回、1961年からは金子光晴や茨木のり子谷川俊太郎らが訪れた「詩の朗読の夕べ」は140回を重ねた。また地元の画家を中心に絵画展を数多く企画した。「あすなろ」は戦後の高崎の文化発信地となった。「あすなろ」を1982年に閉店し、崔華国は親族のいるアメリカに移住、そこに骨を埋めた。

 「あすなろ」の文化的な精神や意義について、高崎という街と、その文化の在り方を問い直そうという考えが、東京での崔華国を知る詩人達の「偲ぶ会」で持ち上がり、高崎で彼を顕彰する催し「あすなろ忌」が開催された。私は弟の崔泳安氏の案内で昨年、その「あすなろ忌」に出席することとなった。

 「あすなろ忌」は崔華国が仕掛けた運動や、その成果を学び検証する。意見を交わし刺激を受け合う「場」、人と人とのネットワークづくりを目的にしたものである。

 崔華国と私の一期一会は、1985年詩集「猫談義」で第35回H氏賞受賞を喜ぶ、東京での在日韓国人文化芸術協会主催の祝う会であった。彼は1951年に来日し、60歳で初めて詩を書き始めた。処女詩集「輪廻の江」そして詩集「驢馬の鼻唄」「晩秋」を発表し分断された祖国への思いを詩にしていることをそこで知った。

 H氏賞は詩壇の芥川賞と呼ばれ、歴史と権威のある賞である。崔華国は70歳で新人賞を取られた。「私はH氏賞を取ったから大成したのではない。詩人の大成とは百年後の文芸史家に言わせるべきものです。」とジャーナリストらしい気骨の挨拶をし、素直に喜ぶ姿を見せた。私は在日韓国人の誇りであると感激し、その姿が眩しく見えた。

 1980年、私は足利の崔泳安氏の自宅を訪問したことがある。画集の出版のため全和凰作品の取材をするためであった。その時、崔泳安氏は「兄の喫茶店は格式といい、サロン的雰囲気といい、集まってくる人達の品性と人格、文化的敷居が高かった。『あすなろ』の従業員募集には何百人もの応募があったことから驚き兄の人柄がわかった。高崎で兄は幸せな人生と余生を送ったと思う。」と「あすなろ」の赤字であった経営を支えた、苦労の話は一切されなかった。私は、その時ゴッホとテオ兄弟の麗しいエピソードを思い出した。兄弟愛の深さを教えられた。

 春爛漫、桜満開の美しき2003年4月6日、第2回「あすなろ忌」が、崔華国と親交のあった郡響の創始者であり、故井上房一郎の旧邸である高崎哲学堂で開かれた。その日アメリカオレゴン州から出席した詩人金善慶夫人は「草木は春には必ず芽が出る。人間は死んでは芽が出ない。なのにあなたは高崎で芸術の世界で洒落た人々に愛され、春が来るたびに芽吹いて輝く。イラク戦争の最中、常識を失い、心を失い、人間を失うこの時代に今日ほどあなたを記憶に残る日はありません。来年もまたあなたに会いに来ます。」と感激の言葉を残して帰られた。

 「『あすなろ』にプロレタリア作家上野誠の版画の大作を飾っていた崔華国の審美眠。好きなものと嫌いなものをはっきりさせる本物志向を亡くなった後に崔華国をますます好きになった。1960年北朝鮮に帰還した画家、゙良奎を記憶している。」という自由美術家協会の画家田中朝庸は語り「゙良奎は今、北朝鮮で生きているのだろうか。」と私に尋ねた。

 崔華国詩全集(土曜美術社出版販売株式会社刊)の編集委員である森田進(恵泉女学園大学教授)は「もう一人の父親のような人で、俺の親父にはこんな人がいいなあと憧れた。詩のウラには政治的な意味があり、トリックがあると生前、崔華国が語った。H氏賞を取るまでは日本名・志賀郁夫と称していたのでH氏賞受賞のとき韓国名チェ・ハァグッ(崔華国)と名乗ったので別人かと戸惑った。」事を打ち明けた。

 在日の詩人李美子は詩人としての崔華国の厳しさを語った。「わからず屋の人が迷惑なことばかりやっている社会で、外国人だからではすまされないこと、苦しいことが一杯ある。黙って、座って泣き言を言い、感極まって泣くような詩では駄目だ。相手を泣かせる詩を書けと教わった。」

 その日こうした熱い思いで集まった人々は、「あすなろ忌」で誓い合った。「郷土を美しい音楽と詩で埋めよう」と。「あすなろ忌」は韓日の文化芸術人達の合い言葉となって新しい崔華国を記憶していくだろうと思った。

東洋経済日報(2003.4.18)

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