◇2006王仁文化祭に寄せて◇

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2006王仁文化祭に寄せて
光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校美術学名誉博士
河正雄

《王仁文化祭(桜まつり)》
2005年4月2日霊岩郡守から2005王仁文化祭(桜まつり)に招待され開幕式に参列した。毎年、日本からのお客様を連れて王仁廟参拝は続けていたが王仁文化祭には参席する機会が無かったので感慨深かった。王仁廟は全羅南道の史跡であり道立公園であるが年々、文化的に整備拡大され市民公園として充実してきたので、その変わり様には目を見張った。

開幕式は薩摩琵琶の演奏で開幕されたので非常に驚いた。というのは、この時小泉総理の靖国問題、独島(竹島)問題で両国の関係は険悪になり、色褪せた韓日友情年となっていたからだ。会場の周りには警官が配置され日本から来た薩摩琵琶奏者をものものしく警備していたのが、象徴的であり興醒めな雰囲気を醸し出していた。

金K鎬郡守は「応神天皇の招きで日本に行かれ先進文化を伝達した王仁博士は霊岩の誇りである。韓国、そして国民が反日になろうとも霊岩は王仁博士の遺徳を守り韓日の友好親善の要となる。」と私を勇気づけてくれた。

羽織袴を纏った薩摩琵琶奏者らの団長は私の東京王仁ライオンズクラブ在籍時代の知人、森園安雄氏であった。「河さんの故郷、霊岩で会えるとは夢のようだ。今日は晴れの演奏が出来たことは王仁博士の遺徳であると思う。両国にどのような波風が立とうとも薩摩琵琶が平和と友好を奏でます。」と語ってくれた事に深い感銘を得た。

私は1987年9月26日王仁博士遺跡趾浄化事業竣工式における梁井新一駐韓日本大使の挨拶「王仁博士の遺徳は日本の学問文化の基礎は基より韓国との交流史の金字塔を打ち建てて現代に蘇った。『温故知新』王仁博士はこの格言を持って我々に教えている。この竣工を契機に両国の善隣友好関係を子々孫々推進して、相互文化交流を深めねばならない。」を思い出し、その言葉を強く噛み締めた。

《閃き》
公園の中心部に枚方市の大阪府史跡伝王仁塚の王仁墓のレプリカが建立されていたのを見て、ある閃きが走った。王仁墓の周りに私の故郷秋田県仙北市角館の枝垂桜を植えてみてはどうだろうか。私は早速、霊岩郡・朴太洪文化観光課長に打診してみた。

「公園は計画的に既に整備され完成しているので新たに植樹することは無理かと思う。特に日本からの桜となると…?」感想は予想通り、概ねこのようなものであった。

そこで私は「朴課長、王仁博士のお墓の周りは余りに淋しすぎます。王仁博士を慰め、感謝と報恩の心で韓国と日本が桜咲く春を共有、共感できるようにしたいのです。それが王仁博士の想いに通じるものではないでしょうか。」と畳み掛けた。

すると「計画書と資料を送ってみて下さい。河さんのおっしゃることですから検討してみましょう。」と程なく返事を頂いた。日本に帰り早速、計画書を作成し秋田と角館、そして桜に関する資料を送ったところ、追ってすぐに「植えてみましょう」との返事が届いたので話はしてみるものだとつくづく思った。

《奥田敦夫先生》
2000年、埼玉県日高市聖天院に在日韓民族無縁の霊碑建立を記念して角館町教育委員会から寄贈された国指定天然記念物角館の枝垂桜は、元角館町教育長であった奥田敦夫先生の配慮により実現したものである。

「今年は光復(終戦)60周年、韓日国交条約締結40周年、そして国民友情年を意義ある年とするために、私の父母の故郷の賢人王仁博士を顕彰、報恩と感謝の心で韓日友好親善交流を促進するために角館の枝垂桜を霊岩の王仁廟に植樹したいのでご紹介いただけないでしょうか。」と奥田先生に連絡を取った。

奥田先生から紹介いただいた岩手緑化種苗生産組合(北上市和賀町)から一年接ぎ木された1.2mの苗木20本が届いた。

「角館の枝垂桜と言う名称は文献にはありません。一般にその土地の名木に名称を付けて呼んでいるものであります。この度の枝垂桜の品種は紅枝垂桜14本。ヒガンザクラ系で紅色、八重咲き。名称は仙台枝垂(せんだいしだれ)桜。そして白枝垂桜6本。サトザクラ系で白色、一重咲き。名称は吉野枝垂(よしのしだれ)桜。」と苗木の説明文が添えられていた。

《桜》
私も予備知識を得るべく文献を調べ始めた。桜はバラ科サクラ属に含まれ北半球の温・暖帯に分布する約200種と南米アンデス山地に生息する少数の種からなる。ヒマラヤから日本に至る東南アジア地域には20〜30種の自生種があるが、日本のものは殆どが固有の種類である。

サクラの種類は野生種にヤマザクラ系(カスミザクラ、オオシマザクラなど)とヒガンザクラ系があり、明治の初め、ソメイヨシノ(明治初年、染井《現豊島区内》の植木商が広めた園芸種でエドヒガンとオオシマザクラの雑種)が現れるまではサクラの主流であった。園芸種には先にあげたソメイヨシノの他に、コヒガンザクラ、サトザクラ、オオシマザクラ、ヤエザクラなどがある。

古代日本人はサクラには神霊的、神聖感を感じ、美意識の対象である以前に農耕社会の民俗信仰が源流にある。大陸文化全盛期には一時、梅に取って代わられていたようだが、平安時代に再び桜に傾倒を集めて以来、日本人にとって切り離すことの出来ない花となったのである。

観桜は貴族、そして武家社会の行事から始まるが江戸時代になると庶民をも交えた春の行楽として定着する。

《角館の枝垂桜》
角館の枝垂桜(エドヒガンの変種)の歴史と由来を語りたい。

佐竹北家として入分した初代・佐竹義隣(さたけよしちか・公家高倉永慶の次男)の子、義明(よしはる)に輿入れした公家三条西家の娘が京を偲ぶために持参した3本の苗木を移植したことが始まりと言われている。樹齢200〜300年以上の老樹400本が咲き誇り、国指定天然記念物152本(1974年指定)と建ち並ぶ武家屋敷で知られている往時そのままの角館は秋田藩の支藩であった。

角館は1603年角館城主となった1万5千石の芦名盛重(義勝)によって造られたものである。また桧木内川堤の桜並木(国名勝指定)は1933年天皇陛下誕生を記念して植えられたソメイヨシノの群落で2kmに渡る日本一有名な「桜のトンネル」である。

《失敗》
植樹する日は2005年5月13日と決まった。杉並区NPO法人「もくれんの家」(代表八木ヶ谷妙子)の会員7名と東京呉学園理事の呉永順御姉弟4名、そして私の妻と総勢13名で霊岩を訪問することとなった。苗木は韓国に発つ1日前に成田での検疫を受け、現代美術家宮島達男氏の奥様、依子さんが手続きを手伝ってくださったことで無事検疫許可証が下りる事となった。

しかし仁川空港で、その苗木が差し止めになってしまうトラブルが発生してしまった。昨年の秋に検疫法が変わり、苗木を2年間預かり、検疫が降りたら取りに来てほしい、事情があるのならばこのまま持ち帰るか、無用であれば、こちらで処分する、と言うのである。まさに青天の霹靂とはこのことである。軽いパニックに陥りながらも、その場は「2年後に取りに来ます」と返事をして立ち去るしかなかった。

韓国に於いて法律改正はよくある事だとは、ある程度認識してはいたつもりだったが、霊岩郡庁でもその法改正を認識しておらず、すでに植樹のための穴を掘り、セレモニーの準備までして待機して大変な苦労をかけてしまったので、ただ我が身の不明を恥じた。

《経緯》
しかし12月17日に霊岩から「霊岩は80年か100年かの大雪で、街は麻痺状態です。日本ではどうですか?」との電話が入った。会話が進むうちに「桜の検疫が通ったので来春4月8日に王仁文化祭(桜まつり)のメインイベントとして植樹式を執り行いたい。日本からお客様を連れてきてください。」という話が突然に出てきた。

植樹は2年後のことだからと全く頭からその事が抜けていた私にとっては「えらいことになった」としか言いようがなかった。何せ、植樹式まで100日程度の時間しかないのだ。年末の最後のところで急に忙しくなってしまった。

すぐに考えたのは、この意義ある植樹を有意義な行事にしたいという事である。そこで奥田先生に「この桜の苗木は秋田の人々に植えて貰いたい。出来れば仙北市長に植えてもらいたいと思っているのですがどうでしょうか?」と相談した後、石黒直次仙北市長と面談し、植樹の提案をした。その場で「検討しましょう。2月までにご返事すれば良いでしょうか?」と答えられたのを聞いて、この植樹に意義を感じてくれたものと市長に感謝と親しみを得た。

その石黒市長が郷土の誇りとする桜の苗木を植樹するというのは、王仁博士との縁を結び報恩と感謝を示すことで、桜が取り持つ両国の友好親善の絆になるであろうとの考えからである。しかし市長は公務多忙のため植樹に参加できないのは心残りである。

良い事を考える、行うという事は、本来は国を超えて楽しく、幸せなことであるはずだ。しかし実行に際しては、決して思うようにはならないものであり、その想いや行動は理解されずに一方的に取り止めになってしまうことが多く、落胆させられるのも事実である。

知人に植樹式案内の声をかけただけで42名もの方々が集うことになり、4月8日に植樹式が挙行される事となり正直、年甲斐も無く血が騒いでいる。

《千字文の書寄贈》
 小林冨美子〈雅号 芙蓉〉さんが2006王仁文化祭の10周年を記念して「千字文」の作品《楷書と行書の屏風》を贈られる。

 小林さんは芙蓉会の代表である。芙蓉会は書道と俳画を通じ民族と文化の壁を乗り越え、国際親善と文化交流を目指し、1998年より精力的に活動している。これまで国内では東京、大阪、四国など、海外ではアメリカ、南アフリカ、オーストリア、特に日本と韓国などで韓日友好親善に心を寄せる個展を数多く開き、世界の人々の心を共感させてきた書画家である。

 私と小林さんとの御縁は2000年光州ビエンナーレ記念韓日親善2000展における招待作家として推薦をしたことから始まる。そして2002年光州ビエンナーレ記念日本文化週間の招待作家となった。その年は史上初のワールドカップサッカー大会2カ国共同開催となり韓日国民交流年と定められ民間交流が活発となった。

 サッカー大会は人類の平和と和合の精神を問う韓日交流の真の意義と深い絆を結ぶ大イベントとなった。その時、知人の具未謨氏から韓国の書芸家、陳未淑(雅号・玉田)氏との交流展のパートナーとなる日本作家を紹介してほしいとの要請があったので小林さんを紹介した。中国に生まれた漢字を使用しながら二人の女流作家が文字そのものが持つ意味を最大限に表現しようとする「書画」という独特の表現分野においての出会いに心がときめいた。

 書芸と東洋画、俳画を通じて日本と韓国のそれぞれの感性と精神世界を表現し、親密な関係発展と相互理解を増進する意味は深い。韓日両国の現代美術の共通点と異なる点を比較しながら両国文化の多様性を確認し、理解しあうのは何よりの国際親善である。

 小林さんは、これまで「千字文」の作品を度々、発表してきた。それは応神天皇の招聘により論語10巻、千字文1巻を携えて来日、日本における文化形成の原点である漢字「千字文」を伝えた百済の賢人、王仁博士を尊敬する熱い想いからである。贈られる「千字文」の作品は報恩と感謝、韓日友好を願う万人の祈りを込めたものなのである。王仁博士の故郷霊岩の王仁廟に小林さんの心(全霊)が宿り、韓日友好の礎となることであろう。

〈ウィーンの日本庭園〉
 2003年の春、日本庭園の修復を通じて国際交流推進事業を行うNPO(特定非営利法人)日本ガルテン協会(会長 原田栄進)より案内があった。

 「1913年に造営されたオートストリア、ウィーンのシェーンブルン宮殿にあるハプスブルグ家縁りの日本庭園の修復、復元が完成しました。その庭園で裏千家前家元・千宗室大宗匠のお手前で茶会が開かれます。一緒に行きませんか。」というお誘いであった。

 お互いの文化や習慣の違いを知り認め合う。そして補い合うことで相互理解が生まれ、新しい道が開かれる。陰陽の太極思想のように入り混じり、丸く一体となって新たな生命体を生み出すのだと国際交流の意義を説かれていた。しかし、その時は日程が合わず、お誘いに答えることが出来なかった。

2005年の春、私は妻と東ヨーロッパへの旅に出た。立ち寄ったシェーンブルン宮殿の庭園を散歩した。日本庭園の標識が眼に入った時にこれが、案内を受けた庭園であったのかと気づいた。

ウィーンの森の中を進むと、その一角に造営された三段の滝石組、築山に三尊石組、心字池、手水鉢が配置されており100年近い年代の風格を感じる庭園であった。その庭を1998年に修復し、その翌年に庭園の両側に茶庭、枯山水など原田さんが造営した日本庭園を見た時には感動が止まらなかった。歴史もさるものながらヨーロッパの宮殿に日本庭園が存在しているという親近感。これは国際交流の大事な要素であるからだ。

〈両国の発展に繋がる〉

東ヨーロッパの旅を終え、すぐに2005王仁文化祭に参席したのだが、王仁墓の周りには何か物足りないような寂しさがあったことから、桜の植樹を提言した経緯を先述の「閃き」の項で述べたが、この時私にはもう一つの「閃き」が浮かんでいたのである。それはシェーンブルン宮殿の日本庭園での感動に直結していた。

2006年6月12日、日本ガルテン協会主催で「チェコ日本庭園・翔和苑開園1周年記念」行事が帝国ホテルで開催された。原田さんの長女が韓国大使館文化院で日韓文化交流の職にあり、その関係でご招待していただいた。

会に出席して、私の目指している国際文化交流と合致するお話を原田さんから伺い、私が半生をかけて韓国で手がけてきた文化活動の資料を手渡した。その後、王仁博士に捧げる日本庭園作庭の方向に急速に進展していった。

「4世紀応神天皇時代、王仁博士によってもたらされた大陸文化により恩恵を受け、今の日本がある事は日本見識人の常識である。現在日本との通商や文化交流が高まっているが、人と文化の交流の基盤があってこそ国際理解を深め両国の大きな発展に繋がる。

日本文化が象徴的、具象的に表現されている日本庭園を韓国で作庭することは、文化の違い、過去の不幸なる歴史認識、そして両国に横たわる外交課題を乗り越えなければならない。外国や国内で作るのとは精神的に段違いな困難を伴う。現地に赴き調査、石材選び、一方日本でも諸準備を平行して進め見落としのないように、材料に不足がないように依頼、手配と心を砕き、税関手続きなど事業の難しさがある。しかし王仁廟に日本庭園を造ろうという河さんの依願に私も同感する熱い想いがあるので一緒にやりましょう。」というご返事を頂き私は強く励まされた。

〈庭園文化について〉
その時、日本庭園文化について原田さんは語った。

「世界でも日本庭園は特殊であり、極めてユニークである。その伝統文化は魅力的である。日本庭園は時代によって自然観、美意識、宗教などが色濃く反映され、庭に込められた精神も形も違う。
歴史的には中国や朝鮮半島から伝来したもので、飛鳥、奈良時代にダイレクトに大陸文化を受け入れ作り変えたものである。8、9世紀に稲作文化の定着を基盤にして朝鮮半島の文化の影響を受け、空間的な造形芸術が庭園として成立したことに起源を求めることが出来る。日本人の生活感覚や意識、歴史が凝縮されて日本的な物になってきたものといえる。

『受容』の精神と共に、木や石、水に神が宿るとした古代人の信仰が日本庭園の起源である。神は清らかな場所を好まれることから、水は庭にとって重要な要素であり、石には魂が宿っており、姿形も人間と同じように見られる。石ほどお喋りなものはなく、一千年前、一億年前のことから喋り始める。

日本庭園作りの基本の70%程に風水や陰陽道による考え方があり、『不死』という人間の基本的な願望に応える鶴、亀などの長寿のシンボルを置いた道教の庭である。自然美を体とし、自然と共生する精神は最も人間的であるといえる。」

私は原田さんの話を韓国の庭園文化の話のように聞いていた。文化の同質性、歴史の共有性を確認する文化論であり、同時に共有するものを多く持ちながら隔たりを持つ両国を想い複雑な気持ちにもなった。

〈作庭企画提言〉
 11月に入って、私と原田さんは共に霊岩を訪問し郡守と面談した。

「あなた方の志はわかったが、韓国はまだ日本文化に理解がなく感情が優先されるので、日本庭園となると問題がある。特に霊岩は3・1独立運動の激しかった土地柄だから理解を得るのは難しいと思う。」と朴課長は表情を曇らせた。しかし私は「王仁博士に対する報恩と感謝の真を日本から捧げるもので、日本的な庭園という固定観念で受け取らないでほしい。

庭園のルーツと文化は韓国にあるのですから、それを大事にして報恩と感謝の心を込めたものを作りたい。難しい時代だからこそ二国間の境界を越える模範を、この庭で具現したいのです。」と説明し理解を得た。「霊岩には予算がないのが現状ではあるが、検討してみましょう。事業計画を具体的に出してほしい。」との返事をもらうことが出来た。

 私達は現地を視察、考証を重ねた。2006年1月に入り、私は原田さんが記した作庭の「起案書」を妻と共に持参して霊岩郡庁に出向いた。

「『青龍・白虎の庭』の作想であるが、韓国では龍と虎は喧嘩ばかりすると言われ取り合わせが悪いので受け入れられない。日本に龍の図案で三波絞があるが、これは太極思想の陰と陽から発展したものである。

 韓国と日本が相対し青龍と黄龍となって天に昇って行く。和の契りとなる太極の思想で結びあうという配置が理念的で、韓日友好のシンボルでもある。青龍と黄龍は韓国の花崗岩に青石と黄石があるので表現しやすく、調達もしやすいだろう。

 霊岩郡庁としては前代未聞の事であり、郡庁としては公務員が個人的に給料を注いでもやり遂げねばならない有り難い計画と感謝している。実現出来るよう超法規的に努力してみましょう。」という返事をもらい、やっと一息つくことが出来た。

 そして同席していた若いスタッフらも「先人である原田さんと河さんの気持ちが、私達にも理解出来るようになりました。私達も一所懸命やります」と声をかけてもらい心が熱くなった。

〈神仙・太極庭苑寄贈〉

 旧正月を終えた2006年2月1日、私と原田さんは再び郡庁を訪ね事業計画書を提出した。

 「天に通ずる神がおわす神聖なる〈天壇〉を中心に阿弥陀様に従う菩薩を意味する〈三尊石〉、三支三合、陰陽二元、五行論思想の〈三山(才)石〉と〈四十八祈願石〉を配置し、不老不死と極楽浄土を現す。

 この庭〈地〉で〈人〉が出会い「交わり」「耐えて」「補い合って」〈天〉との契りを結び合うことは王仁博士の愛の教えである。

 天壇前には徳川四代将軍の家老、城と庭造りの大家である小田原藩主・大久保忠朝縁りの春日燈籠、日本では一番古い三井寺の閼伽井(あかい)の井戸のデザインを模した阿波の青石で製作された手水鉢(つくばい)を配置して王仁博士の遺徳に敬慕を表す。」

庭園の名称は「神仙・太極(青龍・黄龍)庭苑」と決定した。
計画の細部を詰めて作庭は合意され「日韓文化交流の一層の発展を期する為に日韓それぞれの責任において協力し作庭する。作庭竣工時に日本(原田榮進さん)側から韓国(霊岩郡)側に寄贈する。庭を改庭(改修)する時には、日韓が相互協議する。」との覚書を取り交わすこととなった。

庭苑は2006年4月8日の王仁文化祭の開幕式に合わせて開庭される事となり、その日に原田榮進さんより寄贈される。
費用については原田榮進さんと有志、霊岩郡共にそれぞれ2000万円の経費を支出し作庭されるものである。日本からの永遠に悠久なる友情と友好のシンボルとなる歴史的な意味を持つ庭が具現する。角館の枝垂桜咲く下で語らい、憩う、心の安らぎの場所になると思う。

〈原田榮進氏プロフィール〉
特定非営利活動法人日本ガルテン協会・原田榮進会長のプロフィールを紹介する。

1933年福岡市生まれ。日本経営士会正会員
日本建築学会正会員
日本庭園学会正会員庭園思想史〈日本建築・庭園文化と経済のパラダイムの解明〉
人間行動研究会・HB研代表として企業で働く人々の心の行動を研究
日本建築学会のメンバーとして世界各地を調査研究。
また韓国庭苑学会会員として韓国庭園の調査研究に携わる。
日本の社寺庭園の調査研究、沖縄・石垣島の冊封使や福岡の庭園の調査に従事。
オランダ、チェコ、オーストリア〈ウィーン〉などで
日本庭園を修復、作庭、日本庭園文化の普及に務める。

〈想いは一つ〉
1973年9月10日、46年ぶりの父母の帰郷に連れ立って霊岩を訪問した時から、私の在日として韓日を行き来する旅が始まり、それは今も綿々と続いている。

思えば私が所属した東京王仁ライオンズクラブが1977年4月11日に霊岩の百済王仁遺墟碑(1976年11月11日建立)周囲に桜の記念植樹50本をしたことが御縁の始まりである。

1986年4月25日には王仁博士遺蹟址浄化事業の起工式にクラブ員と臨み、1987年9月26日竣工、王仁廟内の浄化記念碑を建立除幕した。

クラブ員と共に1991年10月16日には王仁廟の周辺に200本の桜の木を植樹し、現在咲き誇るそれらの花々が今の王仁文化祭(桜まつり)の誘因・起因となったことは誇りである。東京王仁ライオンズクラブと霊岩の仲を取り持った民間交流の懸橋たる歴史である。

追って1996年4月5日には日本ケヤキ会の方々とケヤキの木を200本、王仁廟周辺に植樹をしている。このような往来の歴史の積み重ねの上に、この度の角館の枝垂桜の植樹、そして作品「千字文」贈呈と神仙・太極庭苑の贈呈が執り行われる。

霊岩と王仁廟、秋田への私の拘りは「在日」として生きた私の望郷の想い(父母、在日同胞が普遍的に求める想いも含める)、二つの祖国と二つの故郷を持った恨(ハン)が突き動かしているからだ。悠久の昔日、王仁博士も日本に渡来し、二度と戻れぬ故郷を想い、山河を彷徨していたのではないかと思う時、偉大な賢人を愛しく、切なく思う時がある。
それは両国の交流の歴史の中、韓日分け隔てなくあった運命であったようにも思う。

 想いは一つ、韓国・日本・在日の平安なる友好であり、それは取りも直さず私の祈りである。この祈りは旅の途中にある。行き先が定まらない在日の宿命とも言える。

王仁文化祭10周年をを記念する、この度の植樹により新たな絆が私の見える所、見えない所で生まれるのは間違いの無いことである。今はそれが喜ばしく、私の新しい力になっている。


2006年3月31日

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