◇関東大震災80周年に寄せて・埼玉であったこと◇

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関東大震災80周年に寄せて・埼玉であったこと

 本日、関東大震災80周年記念集会の開催にあたり、これまで実行委員会の皆様が関東大震災によって引き起こされた諸事件、それによって犠牲となった人々を追悼、この歴史的経緯について追求する学習会を開き、多くの関係資料を発掘して、これらの真実を広く報告されてきましたことに対し敬意を表する。

 埼玉県には関東大震災(大正12年・1923年)による朝鮮人犠牲者の慰霊碑や、供養塔、墓などが数多く残されている。熊谷市の熊谷寺に約70名、本荘市長峰墓地に88名、上里町神保原の安盛寺に42名の慰霊碑がある。児玉町浄眠寺に無縁の供養塔、寄居町正樹院に具学永の墓、さいたま市大宮の常泉寺には姜大興の墓などがある。

 毎年、熊谷市、本荘市、上里町など行政が主催し、地元の民団や総連も参加しての慰霊祭が行われ、それぞれの寺院では住職が手厚く慰霊している。私は幾度か9月1日の慰霊祭に出席し、流言飛語による軍、警察、自警団による大量殺戮で受難した同胞達の霊に合掌した。

 私は1959年に秋田より川口市領家に移住してきた。仙元橋、耶木の橋の近くで、領家はまだ未開の地でアシヤナギが茂っていた。芝川付近は鋳物工場が林立している一大工業地帯であった。そこに入野鋳工所があった。高校時代、母の手伝いで秋田から運んだヤミ米を買って下さったお得意さんである。社長であった入野作一氏(故人)の家屋を譲り受け領家に住むようになったのが川口での生活の始まりであった。

 入野作一氏は時折、私の足を止めて、関東大震災の話をしてくれた。「『朝鮮人が放火した』『朝鮮人が井戸に毒を入れた』と官憲が流したデマは震災翌日から広がった。その責任を朝鮮人と社会主義者、そして自警団に押しつけた事件である。何の罪科もない朝鮮人が猟銃や鳶口、竹槍や日本刀で武装した自警団がデマに踊らされて、関東全域で6000余人以上がその暴力により虐殺された。天災であると同時に人災である。血生臭い歴史は日本人の恥であった。」と語った。

 「大震災の時、闇に紛れて木船が岩淵(赤羽)より舟戸ヶ原(川口)に近づいて来るという半鐘が鳴った。自分は家にあった日本刀を持って駆けつけた。現場では自警団が集団で船の中の菰の下に隠れている朝鮮人を竹槍で突き、日本刀で斬りつけていた。その時、何のためにと考える余裕はなく、ただ恐怖と朝鮮人に対する憎悪だけがあった。それは如何に当時の日本人が狂っていたかということであった。翌日、荒川は血で染まり、人肉を魚が食べているのを見たときは怖かった。今でも夢に見ることがある。」と懺悔していた。

 家の近くの宝湯という銭湯で、浅黒い肌のガリガリとした小柄の鋳物職工とよく会うことがあった。この人も入野作一氏と同じく自警団として舟戸ヶ原に駆けつけた一人であった。「朝鮮人など人間ではない。こちらがやらねば朝鮮人にやられると思い込んでいた。」と、その時のことを体を洗いながら武勇伝のように何度も自慢していたのを聞いた。反省など何一つ感じられなかったその言葉に苦々しい嫌悪感を感じ、それは未だに晴れる事がない。

 1980年、川口市青木町にある得信寺(浄土真宗)を訪ねた。同じ町内に住む朝鮮人が得信寺に関東大震災の時の朝鮮人犠牲者の遺骨があると教えてくれたからである。「愚かさとは深い知性と謙虚さである。」と寺門の脇にある掲示板に貼り紙があった。高口得信住職は新潟出身の方で、以前は川口神社がある金山町のある寺にいたという。1959年に庫裡を青木町に建て、1963年に霊堂を建てたと得信寺縁起の石碑に記してある。

 住職が「長い間この寺に祀っていたが縁故者があらわれたので、その遺骨は帰しました。」と答えられたときは安堵したと共に、よくそれまで守って下さったと感謝した。その事が起因となって川口にも犠牲者が、どこかの寺に葬られていることだろうと舟戸ヶ原付近の善光寺や錫杖寺、そして私の家の近くにあった正覚寺、実相寺、私の父が眠っている光音寺など訪ね調べてみたが、どの寺もそのような痕跡がなかった。何もなくてよかったという気持ちと、腑に落ちないわだかまった気持ちが、心に今もよぎる。入野作一氏や鋳物職工の話と得信寺に遺骨があったという事実、山田昭次立教大名誉教授の調査研究によると荒川放水路沿いで軍隊が機関銃で大勢の朝鮮人が撃ち殺されたという報告をされた事実などから、川口付近でも歴史の中で封印されている事が多いと思われるからだ。

 1995年、長瀞に住んでいる在日一世の尹炳道氏が高麗山聖天院横田辨明住職に「終戦までに数十年間に沢山の無縁仏が日本のあちこちに散在して、誰も訪れる者がいない。何とかこの地に葬り供養したい。」と申し入れた。そして私に「日本国内における民団や総連の垣根を超え関東大震災、第2次世界大戦で犠牲になった同胞の御霊と渡来人の御霊が安眠出来るように供養したい。在日韓民族無縁の霊碑建立の事業に協力してほしい。」と頼まれた。

 「熊谷、本荘、上里で関東大震災の朝鮮人犠牲者の慰霊祭に出席してきたが、いつもイデオロギーによる民団と総連が鍔迫り合いをして先陣争いをする。スタンドプレーの見苦しい風態は在日韓国、朝鮮人の恥である。霊に対しても、心ある日本人にも申し訳ないことである。なんとか霊が鎮まり安寧でありますように、この聖天院に静かに祀り供養したい。」と尹氏は付け加えた。

 2000年11月3日、深谷市に住んでいる石田貞氏の協力を得て埼玉県における関東大震災の朝鮮人犠牲者207名の過去帳を奉安して、私は聖天院在日韓民族無縁之霊碑の除幕、開眼法要の式辞を述べた。

 「20世紀は、韓日、朝日、両民族の歴史において、まさに激動の時代でした。在日同胞100年の歩みはまさにその象徴であります。この100年の間に、祖国を離れた異国の地で、望郷の思いを噛みしめながら痛恨の生涯を終えた人々はどれほどの数になるでしょう。今日に至るまで、我が在日同胞は、家業に精励し、子弟を養育し、あらゆる苦難を乗り越えて祖国と日本の発展に大きく寄与・貢献して参りました。

 在日一世尹炳道氏の発願により、聖天院寺域奥山に、在日韓民族無縁之霊碑と納骨堂、並びに慰霊塔が建立されました。歴史の中で犠牲になられた在日同胞達の御霊が安眠できるように供養したいとの願いからであります。それはまた、在日同胞が歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように、子々孫々にまで語り継ごうとの願いによるものであります。民族の統一を願い、日本と韓国・朝鮮の友好・親善を願う多くの皆様のご理解とご尽力によって、この事業が実現しましたことは、何よりの喜びであります。

 先人達が歩んできた20世紀の歴史を、21世紀を担う若い世代に伝えていくことは、我々に課せられた大きな使命であります。霊碑の建立が、在日同胞の願いを新しい世紀に伝える新たな一歩になることを祈念するものです。私達は21世紀に向け、よき兄弟として、争わず信じあう良きパートナーとして善隣・友好の絆を深めていかなければなりません。本日ここに、よい心、広い心、同じ心を通い合わせて、未来の子孫のために、世界のため、人類のために寄与・貢献し、豊かで平和な21世紀を創造する起縁を結んだことは、諸霊に対する何よりの供養となるでしょう。諸霊のとこしえに安らかなることを祈ります。」

 毎年9月5日は聖天院のお施餓鬼の日であるが霊碑の建立以後、関東大震災朝鮮人犠牲者の諸霊を慰霊する日となった。この日は日韓の歌人達が集い慰霊のための献歌祭を開いている。

 過去の記憶は社会の財産、我々在日同胞の財産であるという認識。この尊い犠牲を無駄にせず教訓を生かして同胞社会の発展と住み良い環境づくりに精進する。過去をないがしろにせず、きちんと反省し学んで歴史の流れとして子々孫々伝えていく。真の善隣への懸け橋をつくる役割を担おうという誓いのためである。

 関東大震災での死者は約10万人。うち火災旋風による焼死者は9万1千人という。犠牲者の身元が確認出来なかったという史実から見ても、地震より火災による2次災害が恐ろしいのだという事を示している。

 だが私は「デマが怖い。ふだんは実直な民衆が棍棒や日本刀を振り上げた、竹槍を持って突いた人々の心理が怖い。ああいう凶行がもう起こらないと誰も保証出来ないだろう。」と言いたい。

 1999年9月7日、本荘市にある長峰無縁墓地で心ない事件が起こった。朝鮮人犠牲者慰霊碑を囲む石柱23本の内、7本が倒されたのである。また碑の西側にある無縁の墓34基の内、27基が倒され、内7基がハンマーで割られてしまった。目撃者の証言によると30代から40代の男が犯行に及んでいたらしいが、犯人を逮捕することが出来なかった為に、この事件は3年後に時効を迎え有耶無耶となった。

 また最近、朝鮮人学校女生徒の制服であるチマチョゴリを切り裂くという事件や、ケンコクギユウダンの朝鮮人を日本から駆逐するまで爆弾を仕掛けるという事件などは陰険極まりないものがある。

 集団虐殺の事実が終戦の日まで明らかにされなかったという事実。国がなかったために韓国人はあれだけの残酷な虐殺にあっても、人権侵害に抗議することはもちろん、弁明の機会もなく事件の調査要求もできなかった無念さを知らなければならない。朝鮮人の恨という感情に余りにも無知な行為であると言える。

 虐殺事件の根源には日本社会に民族差別が今だ根深く残っていることを再確認させる。この事件は在日同胞の歴史の原点であることを忘れてはならない悲劇である。そしてこの悲劇はいつ何時、また繰り返されるとも限らない。我々は英知と理性を持って防災に務めなければならない。

 私が語りたかったのは、辛く苦しい時代を共に生きなかったからといって目を背けるのではなく、恋人や母親に対し、別れを告げることも無く亡くなっていった人達が何を思い、何を言いたかったを理解したいからだ。

 何の罪科もなく、無造作に命を奪われた人達は大義のために死んでいったのではない。未来の子供達のためにも、亡くなっていった無名の人達を私達は忘れてはならない。彼らは歴史における悲劇をもって、生きるということの価値を私達に教える師であり、間違った道を進まぬ為の物言わぬ道標であるからだ。

 思いだしてあげること、それが何よりの供養である。それ故に、亡くなった物言わぬ人達の代弁者となり、生きている私達が語り継いでいかねばならない。彼らには慰霊される権利があり、過去を礎に今を生きている私達には慰霊をせねばならない義務があると思うからだ。過去の惨劇を風化させないことが私達の務めであると胸に抱きつつ、日本と韓国「二つの祖国」で私は生きている。

・関東大震災80周年記念集会記念誌(2003.8.31)
・世界史としての関東大震災(日本経済評論社刊)



関東大震災
1923(大正12)年9月1日11時58分
関東地方南部を襲った震災
震源は相模湾中央、相模トラフ沿いの断層
マグニチュード7.9
京浜地帯は壊滅的打撃をうけた
焼失戸数44万7128、死者9万9331、行方不明1万3000、負傷5万2000、罹災人口340万余
東京被服廠跡では3万2000人が焼死
被災総額、55〜100億円余
山本權兵衞内閣は東京・神奈川に戒厳令を布告
非常徴発令、暴利取締令、支払猶予令を発し、に震災手形を発行したが震災恐慌が発生
震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生

朝鮮人虐殺事件
関東大震災の地震と火災の混乱に乗じて「朝鮮人が暴動を起こした」とか「井戸に毒を入れた」とか「火災は朝鮮人が国を乗っ取るために放火をした」とかのデマを流し、青年団や軍人などが中心に朝鮮人を虐殺すると言う虐殺事件が起きた。
虐殺された人数は約6000人とも言われているが確かな人数はわからない。

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