◇なぜ祈り慰霊するのか◇
なぜ祈り慰霊するのか 光州市立美術館名誉館長・朝鮮大学校美術学博士 河正雄 父、河憲植(1912.9.16〜1975.4.1)の墓所は曹洞宗天医山光音寺(埼玉県川口市領家)にあり、仏教の開祖釈迦牟尼仏の御本尊のもとで眠っている。 農家の三男であった父は全羅南道霊岩の故郷を離れ単身、1928年日本に来て大阪、秋田と労働者として渡り歩いた。父の生涯は血を吐くような労働と生活苦との戦いの一生であった。 その父が秋田県田沢湖町の生保内発電所や先達発電所工事に関わったのは1940年からのことである。発電所工事に徴用され犠牲となった朝鮮人労働者らと共に暮らした、過酷な飯場で私は育った。その事が御縁で、長じて田沢湖畔の姫観音の由来の発掘や、曹洞宗龍蔵山田沢寺(秋田県田沢湖町)に埋葬されていた朝鮮人無縁仏の慰霊碑を建立(1990年)する事となった。 父が1973年、突然故郷の霊岩に帰りたいと朝夕に泣いて訴えた事で、私は父母と共に祖国韓国を初めて訪れた。霊岩は応神天皇の招請で千文字と論語を携えて日本に渡来した王仁の生誕の地である。日本と縁深い文化の恩人として尊敬されている誇りある先賢を輩出した故郷である。父にとっては46年ぶりの帰郷であった。父祖の墓所は霊岩の町の入口にあって月出山を仰ぎ見ることが出来る丘陵の美しい松林の中にあった。碑石もない土饅頭であったが祖父母が眠る墓所での出会いは、私の全身を震えさせ父母の故郷霊岩が私の心を激しく揺り動かした。 翌年、一度限りの帰郷を果たした父は亡くなった。私は、父母のおかげで祖国韓国と霊岩との結び付きを強くしていった。その後月出山九龍峯の麓に外祖父の墓所を作り碑石を建立、そして月出山道岬寺に報恩の石塔を建立した。以後、折りある毎に家族共々参拝できることが無二の喜びとして在日を生きている。 いつしか私は霊岩と田沢湖を二つの故郷と呼び、韓国と日本を二つの祖国と呼ぶようになった。二つの故郷、二つの祖国を愛する喜びは掛け替えのないものである。 1959年、田沢湖町を離れた私は埼玉県川口市に住むようになり45年が過ぎた。埼玉県日高市は高麗の郷と知られているが8世紀にこの地に入植した高麗王若光一族の菩提寺、真言宗高麗山聖天院勝楽寺の境内には「在日韓民族無縁の霊碑」が建立(2000年)されている。施主尹炳道氏は長瀞に住む在日一世であるが、この尹さんとの出会いから霊碑建立に関わった。戦前戦後を通して日韓の不幸な歴史の狭間で亡くなられた、日本全土に散らばる沢山の在日韓国・朝鮮人の無縁仏を祀り、苦難に生きた同胞を慰霊するためのものである。聖天院は人権のシンボル、在日の魂の故郷、聖地として永遠の灯火を灯すこととなったのである。 何故祈るのか、何故慰霊するのか。我々が生きた20世紀は不幸な時代であった。日帝の植民地時代、太平洋戦争、祖国の分断による苦渋と苦痛に満ちた世紀であったと言える。在日は人間らしく生きるために人権を勝ち取る戦いの先頭に立ってきた誇るべき民である。20世紀の不幸な歴史の中で、祖国と痛みを分け合った在日同胞犠牲者達を永遠に慰霊追悼することは、現在の韓民族のヒューマニズムの根幹が豊かで、澄んだ鏡になったことの実証(しるし)の一つになるであろう。忘れないこと、思い出してあげること、そして感謝の心を持って祈ることが、何よりの供養になると思う。それは同時に在日同胞の歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように子々孫々まで語り継ごうという願いも込められている。 しかしながら最近、祈る力が弱まっているように思える。我々は20世紀の傷みと、過去の歴史に、じっと耳を澄ませ声を聞くことが出来る世代である。だが、後の世代は、我々が正しく事実と想いを伝えなければ単なる歴史の一コマに過ぎなくなり、更に後の世代にそれを伝えることは不可能になるだろう。過去の傷みと教訓が示す事柄に注意力を持って見続け、正しくそれを伝える努力を怠ってはならない。我々の世代が持つ傷みを後進と共有し、薄れて行く記憶や体験を語り伝えていくことが使命である。未来に希望を託せるように、過去への追悼と祈りを継承していくことが、ひいては若人を育てる大きな力となると思う。 時代の流れの中で過去を忘れ、現在を生きることは容易い。しかし自らの足元、即ち自らが依って立っている父母の生き様、民族の歴史を知ることは混迷極まる現在を生きる中で、重要なことであろう。 秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報 《第38号》 |