◇「ゲルニカ」への旅◇

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ゲルニカ」への旅

 「戦争の世紀」二十世紀を象徴する記念碑的作品「ゲルニカ」は、永い流転の末、一九八一年九月、四〇年ぶりに故国スペインに帰った。この年は、ピカソの生誕百年に当っていた。以来この作品がスペインを出たことはない。

 私は、戦後五〇年という節目の年を締めくくるために、この世紀の我々の、いや私が生きてきたこの半世紀の歴史を再認識するべく、「ゲルニカ」への旅に出た。

 リスボン、セビリア、グラナダと廻り、マドリードに入った。一九九二年のセビリア万博の時に出来たスペイン高速列車A・V・Eで、コルドバ駅からマドリードに向かった。

 イベリア半島は例年にない異常気象で、一ケ月も降り続きの豪雨、その雨量は七年分の雨量とかで、どこへ行っても雨の話でもちきり。私は折り好くその雨の上がったところへ旅に出たのだから幸運であった。

 列車でついたのがアトーチャ駅。その広場の真前から国立美術館ソフィア王妃センターのエレベータータワーが見える。一九九二年に開館されてまだ日が浅いモダンな建築である。そのセンターの二階第七展示室に「ゲルニカ」は展示されていた。年末に防弾ガラスが外されたばかりだという。

 この偉大な作品は、今世紀の美術の概念を想像しリードしてきたスペインが誇るマラガ出身の巨匠パブロ・ピカソ(一八八一ー一九七三年)の代表作である。

 バスク地方の自治と民主制の象徴であるゲルニカは、北スペインの緑豊かな古都。一九三七年四月二六日、独裁者フランコを支援したヒットラーのナチス空軍の無差別爆撃は、人々の平和と幸福をふみにじり、無防備の市民多数を殺戮し、町は破壊しつくされた。時代は、世界恐慌、ファシズムの台頭、スペイン内戦と、戦争と革命と動乱のとき。巨匠ピカソは、スペインを襲った悲劇、痛みと苦しみに沈んだ人々の憤りと恐怖の叫びの証として、「ゲルニカ」を描き、この地で起こった事実を忠実に反映したのである。

 アウシュビッツ、ヒロシマと並ぶ人類への暴虐。苦悶にみちたこの作品は、現代の我々の十字架の道を、愛と苦悩で描いた反戦と平和を祈念する二十世紀のレクィエム、シンボルなのだ。人類への深い情愛と神への信仰にあふれた宗教画のようにも感じられる。

 一九三七年のパリ万国博のスペイン館で展示された「ゲルニカ」は、爆撃の現場をリアルに描写した写実画を期待した共和国政府や観客たちを戸惑わせ、作品の解釈や評価をめぐって議論百出することとなった。なぜなら、「ゲルニカ」には、銃剣も爆弾も兵隊も、つまり戦争状態にあるスペインのありさまを示すものが具体的には何一つ描かれていないのだ。「ゲルニカ」のためのデッサン、「構図の習作」には、ゲルニカが生きぬいたドラマが象徴的に描かれている。

 ピカソは「ゲルニカ」に、戦争の悲惨さを象徴的に描き、戦争が人類にもたらす悲劇と不幸を暗示し、その無意味さをきびしく糾弾したのである。全体グレーの色調に、白と黒が雄弁に表現している。「ゲルニカ」は、現代の神話を創造しようとした黙示録ではなかろうか。

 限りなく空が近く青いアンダルシアの丘陵のあちこちに、中世の名残りをとどめる白壁の家並みが点在し、アーモンドの花が春を呼んで、旅人の心を慰めてくれたが、遥かの祖国に思いをはせて私の心は安らがなかった。

 スペイン人民がフランコの独裁を打ち倒して民主国家としての出発をして今年で二十年になる。わが祖国は、民主の国としてたった今船出したばかりである。しかも大きな損失と代価を払ってようやく漕ぎ出した民主模索の航路の行く手には、途方もない難関が横たわっていそうだ。

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