◇歴史は市民がつくる◇
歴史は市民がつくる 光州市立美術館には河正雄コレクション、金珠映の「窓」(キャンバス油彩コラージュ110・×160・1985年作)と「名のない旗たち」(廣木油彩アクリル混合200・×70・1997年作)という作品が2点収蔵されている。金珠映は1970年代〜80年代に「我一窓一霊魂」という作品を多数発表してきた。それは単純且つモノトーンの色調で、筆を使わずに描かれていが筆致に表情もなく「窓」ではなく「扉」のようにも見える。それは構造を意識させる作品である。その構造に雲の流れを感ずる構成と、灯明なのか、それとも月明かりなのか、透視されたかすかに開かれたシルエットのような「扉」からは、その先にある「光の空間」に作家のメッセージが投影されている。 金珠映の「記憶」や「道」など人間として立ってきた“意志”やペーソス、作家の寂しさが心象として表されている。「扉」がかすかに開かれている構図には人間の性善や可能性、未来への希望と展望を与えているように、思われる。 2002年3月29日、第4回光州ビエンナーレが開幕された。私はその日、野外に設置された作品を見て回った。メイン会場近い小高いところに、赤土を盛り上げて作られた韓国でよく見られる土饅頭のお墓のような形をしていた設置作品があった。私は粗末な木の扉を開けてその作品の中に入った。明るいところから急に室内に入ったので中の展示物はすぐには見えなかった。室内は3人ほどしか入れない狭い空間で、正面に小さな障子の窓があって、窓の桟から外明かりが差し込んでいる。その光に作家の制作意図が感じられら。 目が慣れてきて、室内を見回したところ、古い韓国農家の竈のある土間で、壁も天井も赤土で仕上げられており、柱には厄除けの札が貼られてあった。置かれた笊にはお米が豊かに盛られ赤い唐辛子など収穫された農作物が置かれて隅には臼が置かれていた。その臼の中からかすかな音が聞こえている。のぞいてみるとビデオが設置されており映像が流れていた。 その映像は中国北部なのかシベリアなのか、国名はわからなかったが、韓民族の生活の様子や彼らのインタビューなどが、ルポルタージュされた作品であった。世界各地にに移住している在外同胞は600万と聞いている。以前に戦前のサハリンでの韓民族の極悪な生活のルポを見たことがあったので、この作品は韓民族の恨と癒されない在外同胞の歴史的な痕跡と証言を記録したものと理解した。 私はその土饅頭の中に一人吸い込まれるように入って身震いを感じた。私が2〜4歳まで霊岩で住んだことのある家の土間と同じ土の香りと空間を感じたからだ。幼少の時の記憶が蘇り懐かしさが頭の中が渦となった。 私は一人そこでしばし過去との会話をしていた。戦前戦後に日本での父母と同じような、苦痛の境涯をビデオは映し出していたからだ。韓民族の桎梏、歴史というものの残酷さを感じないわけにはいかない、我が事のように身につまされる映像であった。 外に出て誰の作品であるのか確認しようとしたが何の表示もなかった。ビエンナーレのガイドに聞いてみてもわからないと言われた。その時、これはビエンナーレ出品作品ではないのかとも思った。 2002年5月15日、美術雑誌「アート」の主幹である金福基氏から連絡があった。韓国で3月にハングル版の「二つの祖国」を出版したが、その本を読んだ方が私に会いたいというのである。 金福基氏の紹介でソウルのロボテルホテルで金珠映と会った。「私はパリと韓国にアトリエを持ち、両国で作家活動をしています。ビエンナーレに作品を出品していますが見ていただけたでしょうか?」と言った。それは先述したビエンナーレでの展示作品であった。その作家である金珠映とこのような形で対面する事に、私は不思議なものを感じた。 「光州で「二つの祖国」の本を読みました。大変感動し、私はあなたのオモニを主題にして在日同胞の恨をアート作品として制作してみたい。文筆、ビデオ、平面、設置、パフォーマンスなどで表現してみたい。日本での河家の流浪と流転の歴史の足跡地を取材したい。」と要請された。 8月14日、私は関西空港でパリのアトリエから来る金珠映を待っていた。降り立った金珠映は山男が背負うようなリュック姿で現れた。その重さはゆうに20キロもあり、私を驚かせた。てっきりフランス帰りのマドンナの雰囲気を持つ、洒落たセンスの洋服を着た女性が現れるのかと思い込んでいたからだ。 心配になって「私が背負いましょうか?」と尋ねてみると「今までモンゴル、シベリア、中国の僻地もこうして一人旅をして取材し、作品を制作しながらパフォーマンスをして廻ってきたから大丈夫。」と微笑みながら、言われた。小さな体にそぐわない大きなリュックを再び見直し、私は溜息をついた。 私の生誕地は東大阪市(旧布施市)森河内である。金珠映と20数年ぶりに訪れたその地に、生まれ生活した戦前からの長屋が現存していた。だんじりを引いて流した路地、鎮守のお社も変わっていなかった。終戦間際に我が長屋の裏にあった溜め池に、B29から爆弾が落とされたが不発に終わった。その為、長屋は傾いたが家族の命は助かった。その痕跡は埋められ、建売住宅が密集していた。戦前その長屋には朝鮮人家族が数組住んでいた。その人々は戦後、日本各地に移り散った。私の家族も、ここから秋田に移住したのだ。ここが私のルーツかと思ったら無性に涙がこみ上げてきたのは、ただの感傷とはいえない実感があったからだ。 猪狩野、西成、鶴橋と廻った。路地一帯が朝鮮人の家屋で密集していたが、街全体が静まり返っている。当時の活気や生活感が薄くなっているように感じられた。同化が進み、よくみる日本の町並みのように見えた。 1947年、私は布施朝連初等学校の第1期生として入学したがすぐに、民族学校弾圧の嵐が吹いて、授業どころか連日、警察に追われる学校生活を味わった。私は学校の跡地に立ってみて、その時代の狂騒が幻のように思えた。 京橋駅頭に太平洋戦争犠牲者の慰霊碑が建っていたのでお参りした。終戦間近、B29の襲来で何万もの犠牲者の出たところが、この京橋付近である。住んでいた放出からすぐ近くのところで、当時父が片町のガラス工場で働いていたので、弁当を届けに何度か行ったことをその京橋で父を思い出した。 その日は8月14日、旧の送り盆で、京橋川の川辺りでは供物と霊に捧げる供物が小舟に山と積まれ、線香の煙があたりに充満し、人並みが溢れていた。 金珠映は、広島平和記念公園で行われる毎夏のセレモニーをパリやソウルでテレビを見て知っていた。公園内にある韓国人原爆慰霊碑の前で、金珠映はここでパフォーマンスをやりたいと言いだした。私は「ここは許可無くしては出来ない」と言ったが、諦めきれないのか何度もスケッチや記録をして構想を練っていた。22万余の犠牲者の中に朝鮮人が2万余人あったという事実を知って、金珠映は想いを強くしたようであった。世界遺産となった原爆ドームの異様さ、何人もここに佇めば心は平和への願い、核兵器使用への憤り、犠牲者は民衆であるという1つの想いに辿り着く。この場所に韓国人原爆犠牲者慰霊碑が、移され祀られたのはつい最近のことである事を教えたら、霊まで侮辱するのかと金珠映は表情を曇らせた。 その日は終戦記念日であった。突然私の携帯電話が鳴った。ソウルのKBSラジオ第1放送からであった。実況放送で光復節を迎えての在日同胞の所感をインタビューしたいとのことだった。私は日本での生き様や、いま広島であったことを話した。 1時間後にまた電話が鳴った。今度はKBSラジオ第2放送からである。日本と韓国を「二つの祖国」として故郷としている私の所感をインタビューされた。この春に出した私のハングル版「二つの祖国」の本を読んでインタビューするのだと言った。日韓はこれから運命共同体となる。従って韓日友好親善の路線を貫き、在日同胞の権益と地位の向上を韓国民に強く訴えた。各々放送は15分にも及んだ。 下関は関釜連絡船の玄関口である。私は母と共に4歳の時に、霊岩から栄山浦の港で伝幡船に乗り、麗水で船に乗り換えて下関に着いた。関釜連絡船岸壁から長い連絡通路を進むと下関駅がある。記憶にある下関駅は今も現存していた。当時新築されたばかりの下関駅は、今は文化財の指定を受けてもよいほどに古くなっていたが、郷愁を感じる良い建物だ。駅には雑踏はなく私が戦前この地に降り立った時に感じた人々の活気や息遣い、喧騒はもはやそこに感じることはなかった。 記憶を辿って長門町、竹崎町と歩いてみた。そして円通寺に参った。街に昔の名残がなかったが、在日同胞の韓国食材を売る店があったので入ってみた。店の主人の案内で丘の上の神田町の朝鮮人部落を訪ねることとした。糞(トンコル)の街と言われた朝鮮人部落は下関に何カ所かあったが、神田町は当時そのままの営みが今も残っている所である。戦前、私の家族もこの部落のどこかに滞在し、大阪そして秋田へ移住する前の一時のねぐらとした所である。 小山の頂上近い、見晴らしの良いところに光明寺があった。戦後まもなく韓国から住持が移り住んで開いた寺である。鐘楼から見下ろすと目の前に朝鮮総連系の朝鮮人学校が見えた。 「この地域には、今は2000人程の朝鮮人が住んでいる。年々、ここから出ていく人が増えているのでずいぶん少なくなった。今いる人は生活の貧しい人々が残っている。在日同胞は可哀想だ。特に、ここに残されている人々は尚更である。戦前戦後そして、今も日本人社会や韓国人社会から疎外された人々で、南北のイデオロギーの対立による争いは同胞達を大きく傷つけてしまった。せめて在日同胞は分裂せずに団結さえしていれば今の境涯はなかったと思う。」と光明寺の金鎮度住持は吐き捨てるかのように語った。その時、生暖かい風が通った。その風と共に糞の臭いが鼻についた。その臭いこそ私の原点である。今もトンコルの臭いが下関に残っていたのに驚き、郷愁を超えて在日同胞の置かれている生活の実態を思い知らされる事となった。 坂を下り歩いていたら、韓国語の会話が聞こえた。その町並みはソウルや釜山で見た山の斜面に密集している粗末な箱房の風景と同じであった。懐かしい風景にも見えたが、このトンコルの街から解放されない限りは在日同胞は浮かばれない。下関からトンコルの街がなくならない限り、在日同胞の戦前も戦後も、真の終わりを迎える事はないのではないかと陰鬱な思いになった。 金珠映と私は埼玉県日高市にある高麗神社と聖天院に行った。今から1250年前に渡来した高句麗の若光王を祀る神社と菩提寺である。渡来の歴史と日本に祀られている祭神に、金珠映は関心を示し、日本と、そして在日同胞の根を、新たに認識したようである。日本に根付いて、この風土と歴史の中に培われた在日の精神の有り様が理解できたようだ。 2000年、聖天院に建立された在日韓民族慰霊碑に参った。日韓の歴史の中、20世紀における不幸のために、亡くなられた全ての犠牲者の霊を祀る在日韓民族の無縁の霊碑に、金珠映は在日の人々への想いを強く実感したようである。ここに霊が静かに眠り、在日同胞の祈りの原点があることを。 秋田は竿灯祭が終わるともう秋の風情がある。東北の秋は早い。秋田新幹線こまちで田沢湖までは3時間弱で着いた。昔は夜行列車で10時間以上はかかったものだ。 私は田沢湖町と呼ぶより生保内の地名の方が馴染んでいて好きだ。民謡の生保内節は盆踊りでよく踊り、酒の席でよく歌ったものだ。田沢湖と言うと小学生時代、母が死のうと何度か私の手を握って湖畔に行ったことがあったため、今でも暗いイメ−ジが浮かんで悲しくなってしまう。 金珠映が田沢湖の姫観音に関心を持ったのは、その建立の由縁が長い間、秘められていたためである。そしてその石像が芸術的に見て造形が完成されており、湖全体を見守っているたたずまいは優しさに溢れており、美しいことこの上なかったからであろう。田沢湖のシンボルといわれる金色に塗られた辰子姫像は田沢湖には似合わないと金珠映は何度も呟いた。 1937年から始まった田沢湖周辺の国策による電源開発工事の歴史、朝鮮人強制連行の歴史などが封印されていた事が、明るみになっていった経過を知った金珠映は韓国人として強い戸惑いをおぼえたようだ。こんな歴史があったことを韓国人は知らぬ事実であったからである。 田沢寺に建立された朝鮮人無縁佛慰霊碑に捧げられた、私が詠んだ「ふるさとを 田沢とよばん 彼岸花」の句に憐憫の情を示した。秋田空港で降りて、韓国仏教会の団体が、田沢寺に参り、法要を数回開いていると説明したところ、金珠映は韓国がこんなに近いのかと深呼吸していた。私達家族が終戦近くまで住んだことのある先達の馬方の住居跡、そして強制連行者達の宿舎跡の山中に踏み込んだ時には鳥肌が立つ思いがしたと青ざめていた。 田沢湖畔田子の木部落の朝鮮人労務者の飯場跡を訪ねた。この部落の女性が朝鮮人労務者と恋仲になり、終戦後引き揚げた労務者の故郷に共に行った。男性が亡くなった後に、この日本人女性は慶州のナザレ園に収容され、そこで息を引き取ったのだという史実を話した。金珠映はこの女性の生き様にも憐憫の情を示し、東北の山奥にあった日韓の歴史の共通項を確認したようだ。 父母が労務者として働いた生保内発電所や刺巻の飯場跡、そして神代発電所がある抱返渓谷の山中にある飯場跡を踏査した。金珠映はもうくたくたであったが、弱音は決して吐かなかった。丸2日かかって田沢湖周辺の、終戦までの朝鮮人強制連行の痕跡を捜し歩き、金珠映は作品制作のイメージを固めていった。 金珠映は8月20日、日本での1週間に渡る強行軍の慰霊と取材の旅を終えて、夜行列車で秋田駅から大阪へ発ち、そして関西空港からパリに帰って行った。 「秋田に来て初めて日本の地方の美しさ、田舎の人情の美しさを知った。そしてあなたの父母がこの地でどんな苦労をしたか知った。韓国人は在日同胞のことや、日韓に関わる歴史のことを余りにも知らな過ぎたのは恥ずかしい。今まで河さんの母をモデルにして作品をイメージしてきたが、田沢湖に来てからあなたの父に関心をもつようになった。あなたは名を出し、あなたの母は今、幸せに生きている。しかし30年前に早逝したあなたの父は、在日同胞が等しく故郷と家を離れて、日本という地で戦い生き、名もなく歴史の中で死んでいった人々と同じ境涯にあることが愛おしく思えたからだ。」という別れの言葉を残して。 父は生前よく語った。全羅南道の人は、性格温順で人情深い。年長者を尊び敬い、祖先を大事にする。東方礼儀の国の典型的な気性の民であると。 そして、父は生まれ育ったふるさと、霊岩を懐かしみ慈しんだ。百済文化を誇りとし、日本文化の祖と仰がれる王仁博士はふるさとの偉大なる先賢で、その遺徳は燦然と輝き、綿々たる流れや営みは今も我々後裔に正しく受け継がれていることを矜持としていた。その父が突然郷里の霊岩に帰りたいと、望郷の想いを切々と訴えた。 1973年、私は父母と共に初めて祖国の地、全南霊岩を訪れた。父にとっては46年ぶりの生涯初めての帰郷であった。祖先は丘陵の美しい松林の中に眠っていた。国立公園月出山の麓にある道岬寺は新羅時代に道洗国師が創建された名刹である。住持が話された。「あなたのハルモニは信心深い人で道岬寺に帰依され、日夜日本で暮らしている息子夫婦や孫達の平安を仏様に祈っていた。」と。その言葉を聞いた時、私にはあったこともないハルモニの慈悲深いお顔が見え、ありがたいお姿に出会ったようだった。肉親の情と血の温もりが全身を震えさせ、霊岩は私の心を激しく揺り動かした。 翌々年の1975年、父は「もう1度郷里に帰りたい。田舎で田んぼを耕し、静かに暮らしたい。」と言った。だがその1週間後、病に倒れ、還らぬ人となった。父が病に倒れたのは64歳の時である。2ヶ月間は意識がなかったのだが臨終の日、私の手を握り初めて口を開いた。「正雄、お母さんや妹弟達に苦労をかけた。許してくれ。本当にありがとう。」と言った。その言葉に父が回復する奇跡が起こるのかと思ったが、それは別れの言葉であった。苦労をかけたのは父ではない。まして父が詫びる事ではないのだと私は思っている。最後に残したその言葉を一生胸に抱き、拘り続けた父の魂は永遠なるふるさと霊岩の山河に帰っていったのだ。1927年、16歳の時に父母と別れ、故郷霊巌を後にした日本での父の生涯は辛酸を舐め、血を吐くような苛酷な労働と生活苦との戦いの一生で終わったのだ。 その後、私は美術展や日本との文化交流、そして植樹などのため霊岩をしばしば訪れる機会が多くなっていった。そして失った母国の言葉を取り戻し、積極的に全羅南道の風物を訪ね歩いた。そこで良き師や先輩、友人にも恵まれた。同胞としての存在や理解を受けたことは私の最大の喜びである。みんな父母のおかげ、故郷のおかげであった。 日本生まれの日本育ち、生の全てがこの日本にあった六十四路の私、いつしか湖南の山河を彷徨する旅人となった。自分の姿は雲水にも似た托鉢修行のようにも思えてくる。父が見た月出山の天皇峰の頂の虎を探し求めているのであろうか。 それとも仏教文化の華開いた百済時代の千余の寺院の甍の幻影を追っているのだろうか。雄大なる月出山は湖南人の精神的なシンボル。不偏なる慈悲と哲理を説いて見守っているようだ。私は空を仰ぐと太陽を拝し、月を愛で星を数える。その行き着くところにはいつも湖南の空がある。その空の下が平安で豊穣なる恵みと幸いを与えたまえと祈っている。 父と出会うための湖南への旅は、新しい出会いを求めて今しばらく続くであろう。 |