子供の頃から、文を書いたり絵を描いたりすることが好きであった。私の文章や絵画はまったくの独学、自己流である。専門に学んだこともなく、特別、師と仰ぐ人もいない。言うならば、まったくの素人、趣味的なものである。日常生活の中から好奇心の沸いたもの、心が動いたものを、自然のまま、ありのままに、衒いもなく飾りもなく書く、描くといったスタイルである。何よりも確かなのは、感動のないものは書かぬ、描かぬ、ということである。 まずもって自分に正直でありたいということ。美しく清らかな心でありたいという精神状態でなければ、進まない。不器用で描いた文や絵であるということは、自分自身おめでたくも知っている。そんな私につきあってゆくことは、苦痛や疲れが伴うことだが、これも一期一会の出会い、縁とおぼしめして、「そうか、そうか」と言っていただき、そっと眺めていただければ救われる。 どこかで成長が止まって、今の世に通じない、化石のようにこだわり続ける私の心のうちを、読んでくだされば有難い。 私は小学生の頃は、小学校の先生になりたいと思っていた。それも、一年生や二年生の担任になることを夢みていた。あどけなく天使爛漫な児童たちと一緒に遊ぶことができたら、どんなに楽しいだろうかと、夢ふくらませた。特に担任の堀井智恵子先生みたいな、優しい先生になりたいと憧れたものである。もう一つの理由は、私が妹や弟をおぶって学校に通い、その妹や弟があまりにかわいくて、私はままごとの母のような役割をし、先生の真似事の境地にもなって、女先生へのあこがれと重なっていたのかもしれない。それほどに無心で、純真な思いがその時あったのだ。 中学時代になってからは、担任の松本正典先生の男らしさ、豪快さ、積極的な行動性に感化された。また半面、内に秘めたナイーブな、宗教的哲学感のある先生の二面性にも惹かれ、父のようにも感じた。「よし!中学校の先生になろう」と、思ったこともある。多感な思春期のことであり、夢は覚めず熱かった。 高校時代には、新聞記者になることも夢見た。ペンは武器よりも強い、ということを知ったからだ。真実を捜し、真実を掘り下げ訴えること、正義を述べること。正義に生きるには、ペンの世界が自分には一番ふさわしいと思ったからだ。社会の窓であり、何よりも動いていることに興味があった。多分三年間通い続けた列車通学の中での出来事が、大きく影響しているように思う。列車は社会であったし、日々動いていたからだ。正義や邪悪も運んでいた。私の視点、感性は、列車の中の人びとの人生によって磨かれていったとも言える。蒸気機関車は、私の心を躍動させ鼓舞する力強いものがあった。 また弁護士になりたいとも思った。特に弱い者、力のない者の力になりたかった。人はなぜ悪いことをするのだろうか。法律は社会や人々のためにあるはずなのに、その法律を破る人がいるのはなぜだろうか。世の不条理とその矛盾をついて社会悪と闘いたかったし、罪を救済したかった。そして何よりも正義のために闘いたかった。青年期の私は、真摯にわきめもふらずにそのように考えていた。そんなに若かったのだ。 私は高校入学に燃えていた。わが家の生活環境では、逆立ちをしても高校進学は無理であったが、叔父が進学を支援するという話を信じていたからだ。願書を出す段階になって、その叔父から「なぁ正雄、馬を一頭買ってやるから、家のために、お父さんと一緒に馬車挽きをやらないか」と言われて、絶望の奈落に落ちこんだ。 都合の好い言葉を信じ、人をあてにしたことが間違っていたことに気がついた母は、強く立ち上がった。高校入学をやめかけた私に、「この学生服を着て大学まで進むんだ。お前の父と同じような馬車挽きでは、一生うだつがあがらない。生きているかいがないじゃないか」と言って、東京から、飛び切り上等な学生服を買ってきてくれた。「大学を卒業するまで着られるように、少し大きめのものを買ってきたが我慢しろ。その代わり、秋田では買えないような高級な服だよ」と自慢したが、ダブダブでみっともなかった。父も母も小学校の門さえくぐっていない。だから、いつも口癖のように、「無学のものは牛馬のように働くしか能がないんだ。だから子どもに希望を託し、教育だけは、死んでもうけさせなければならない」と、意地と信念を見せつけた。 母はこの時から、子供の教育のために東京へ出てゆき、たたかいに臨んだのだ。この時の、こうした父母のふんばりがなければ、今の私はない。その学生服は、高校卒業後も就職先に二年も着て通った。袖口が少し擦り切れたが、弟が高校入学のときに譲り、弟はさらに卒業するまでの三年間着て通ったが大丈夫であった。宝物ように大事に大事に着用して、父母の愛に応えなければならない有難い学生服であった。 私の夢はことごとく破れ、挫折した。国籍条項の問題があることを知ったからだ。今は少し開かれたが、外国人は学校の先生や弁護士にはなれないこと、新聞記者になるにも一流大学を出て、縁故やコネがなければならないということを知り、縁遠く夢見るような話であった。実力だけでは勝負にならないことも知ったが、下の姉弟のことを考えると、大学に入るには経済力が追いつかないことが、もっと切羽とまった重大な問題であった。最後に残された夢は、子供の時から好きであった絵画、画家になることであった。これも思わぬところに敵がいた。私の母である。描いた絵は破り捨てるし、絵筆はみんな川に流して捨ててしまう。 「男が絵描きになってどうする。頭が変になった人のやることだ。今まで、飯の食える人を一人も見たことも聞いたこともない。まして長男が絵描きでは河家はお先真っ暗だ」と言って、母が猛反対した。母の夢は、私を大学に進ませることであった。しかし下の姉弟のことを考えると私の良心が許さず、断念せざるをえなかった。このことが、二人にとって一生の悔いとなっている。前途が八方塞がりになってしまったところまでが、二十歳になるまでの航路である。 全和凰画業50年展を企画したことから、1982年1月11日求龍堂より「全和凰画集」を出版した。私はその末尾に、「望郷」と題する一文を発表した。その画集作るにあたっては、7年の歳月を要した。その間の私の心の動きと日々の暮らしのことを、断片的に綴ったものだが、でき映えはものたりなくて自己嫌悪に自己嫌悪に陥っていた。 1989年5月7日、ソウルから中央日報社の「月間美術」担当の金福基記者が突然訪ねてきた。「あなたの文を国立現代美術館の図書館で読み感動しました。全和凰先生のこととあなたのことについて紹介したい。その取材のために来日しました」と。 そのとき、記者は「望郷」の文の後のことについて取材した。その記者が帰国に際して、「あなたの生きざまや考え方は、韓国人の人びとにも通ずる普遍的な価値がある。日々のことをもっと書き残して、まとめて両国で発表したら良いと思う」と言われた。そしてその年の8月下旬のこと、恩師の中島昭二郎先生が定年退職され、後に胃の手術をなされたとの報を聞き、お見舞いに伺った。そのとき、「“望郷”の文を読んだよ。その後のことも読んでみたいものだ。その後どう生きたのか、興味があるので書き残して発表してみたらどうだ」と。 時を同じくして言われたことが重なって動機となった。「全和凰画集」刊行当時、いろんな人びとからお手紙や電話をいただき、お会いした方々からも話はあったが、その時は、ようやく出版にこぎつけた安堵感で、社交辞令程度にしか考えず、真剣にはうけとめなかった。そして私の文章の表現力では無理と、諦めてもいた。要するに自身がなかったのである。まず何ごとにつけても、中途半端の域にあること。思い入れが一人合点で、自己中心的世界に酔っているし、繰り返し同じことをくどくど思い出しては、暗くやり切れない切ない話に終始することに、われながらあきれ、閉口もしていたからである。さらりと忘れ去って、流してしまえばそれまでのこと。ケセラセラの境地に入れず、一つのことにいつまでもとらわれ、こだわる性格は、救いようのないことも知っていた。 思い切りの悪さと未練がましい性、身のほどをわかっていながら、やめられない凝り性なのだ。浅学、薄識の情けなさでありながらも、ヨイショには弱く、木に登ってしまうのが欠点である。しかし、またそれが長所だとも人は言うが、どちらが本当だろうか。 そんな次第で1993年、成甲書房から「望郷−二つの祖国」を出版したのだが、その後、いろいろなところから反響があった。日本社会で差別を受けたことを、なぜもっと書かなかったのか。書かれている以上に苦しかったことがたくさんあったはずだ。その「恨/ハン」を書くべきだと、続編を期待する声が多かった。読者の多くが、祖国の分断と南北の政争そのまま持ち込む民団や総聯という組織の狭間にあって、どちらからも疎外された話などは、身につまされたと言う。私の受難や苦悩であった「恨」の本質的なところが理解できた、共感したと言われ、少し癒されたように思う。 私の文才では自身の心の恨、内面にある情緒を書く能力が足りないことも、その時悟ったが、感情には表現しきれない微妙な彩りもあるということも理解してほしい。 2001年秋、鄭モ浩(韓国中央大学校)名誉教授より「望郷―二つの祖国」のハングル版を出版したいとの申し出があった。「韓国では日本の文化開放政策が進められ、友好関係が増進されて来たところに、今年は教科書問題が政治的問題に発展し、友好関係が冷え込んでしまった。しかしこんな時だからこそ、あなたの『望郷―二つの祖国』の書かれた意味が今の時流に受け入れられるだろう。祖国の人も『在日』を理解し考える余裕がでてきた。ようやくここに来て、韓日間で在日同胞の『生』を理解するような空気が生まれ、レベルも上がった。これは日本も同じことではないかと思う」と鄭教授は言うのである。とても嬉しく、ありがたい話しであった。 初版の『望郷―二つの祖国』は絶版となっていたし、2002年韓日合同ワールドカップサッカー大会を記念して日韓両国で同時に出版ができればと、友人の茶谷十六氏(財団法人民族芸術研究所所長)のアドバイスもあったことから、明石書店さんに持ちかけた。明石書店さんに持ちかけた。明石書店の石井昭男社長に相談したところ、二つ返事で快く引き受けてくださったことは幸運である。 しかし一抹の不安もある。本書はその時の思いつきと、日々のことを綴った文章を寄せ集め組み立てたものであるから、重複する部分が多くある。新聞や雑誌に執筆したものなどは、時にダブリが多いため、読んでくださる皆さんにくどいと思われるかもしれないが、お許しいただきたい。また実名で記述した部分のことで、個々のプライバシーを傷つけることになりはしないかということも、気になるところである。このような危惧がないわけではないが、御寛恕いただきたい。 編集してくださった明石書店の鈴木倫子氏、校正してくださった茶谷十六氏には、ことのほか苦心されたと思う。まとめてくださったことに感謝している。 振り返ってみると、私は周りの人びとを振り回し、お世話になりながら、子供のときからの見果てぬ夢を追って生きたようだ。自己中心的な世界にひたりながら、本書を発刊したように思われるかも知れない。しかし私が世の人を愛し、故郷を想い、父母を敬い、韓国と日本という二つの祖国に対する熱い想いをこめて書いたことは、真実であって、理解していただけると思っている。 歴史家 李光洙 歴史家よ 君の歴史は嘘っぱち! われらの愛が誌されてない歴史は そんな歴史があるものか、 われらの愛の破綻が誌されてない歴史 そんな歴史は知れたことさ、嘘八百さ。 歴史家よ きみの筆は追いまわす 腹芸の茶番狂言や、からくりの外交を、 だけれどきみは知るまい たんぼの畦みち 牧場を吹く風のそよぎに まことの歴史のかくれているのを。 歴史家よ 吾子の習い覚えた片言をきみは書いたかね おつむてんてんあんよは上手を書いたかね あそび疲れて寝入っている無心の寝顔も入っているかね それのない歴史なら知れたことさ、嘘八百に決まっているのさ。 詩人李光洙の「歴史家」は私の夢と希望を育んで励まし導いてくれた詩である。今の私の一番の理解者であり、熱く抱擁をして私の行く末を見守ってくれている。 韓国と日本、二つの祖国を生きる」マスコミ紹介文 読売新聞(2002.5.19) 著書は、田沢湖を水源とする発電所の建設工事のために韓国から渡ってきた労働者を父に持つ、在日2世の実業家である。財をなすまでの著者の人生がいかばかり過酷なものであったか、本書からわずかに垣間見られるだけである。語られるのは、容易に埋め難い二つの祖国の溝にしなやかな橋を架けようとする筆者の誠心の尽力についてである。 「望郷の夢で凝縮された在日韓国人の実像」を弥勒菩薩に擬して描いた全和凰の作品をありうる限り収集し、これを光州市立美術館に寄贈し光州ビエンナーレ記念展を通じ同画伯の名を日韓に高からしめたのが著者である。 山梨県に生まれた朝鮮で植林技術の普及にあたるかたわら、失われゆく朝鮮陶磁器の調査に没頭し、後の朝鮮芸術研究に深い影響を与えた浅川巧(1891〜1932)、故郷の人にさえ馴染みのないこの人物にスポットを当てたのも著者である。日韓関係を影で支える高い志操の人の著作である。 埼玉新聞(2002.5.8) 日本と韓国、二つの祖国を持つ在日韓国人の生き方を知ってほしい。 川口市の在日韓国人2世の河正雄さんが「韓国と日本、二つの祖国を生きる」を出版した。河さんは、育った秋田県での朝鮮強制労働の実態を調べたり、長崎で被爆した柿の木2世を韓国に植樹するなど、両国にまつわる問題や文化交流に心を砕いてきた。 「在日韓国人は二つの祖国のはざまに生きてきた。サッカーのワールドカップを機に、両国の関係と共に在日韓国人について知ってほしいと」河さんは話す。 河さんは大阪で生まれ、秋田県田沢湖町で育った。両親は韓国の全羅南道霊巌郡出身、本には、秋田県の発電所工事の飯場で、韓国人の強制労働の実態を明らかにしていく様子がつづられている。両親の故郷で国際美術展「光州ビエンナーレ」が開かれると聞くと、光州市に働き掛け、秋田県の民族歌舞団の公演を実現。長崎の被爆柿の木2世の植樹を光州市に働き掛けたり、日本で生きた韓国や朝鮮人の芸術家の生き方を追う。 教科書問題がくすぶる中で反日感情は強かった。日本人も韓国人も歴史事実については口が重かった。「日本の代弁者をするな」と言われた。それでも、働き掛けるうちに周りが変わっていく様子が同書につづられている。 河さんにとって、生まれ育った日本は生活の根拠地であり、骨を埋めようと考えている場所でもある。「ルーツのある祖国の発展を願いながら、日本で共に生きて行きたい。日本にも祖国にも思いがある。そういう在日韓国人はいっぱいいる」と話す。祖国との関係を絶って生活している人もいるが、きずなを切らずに発展を願いたいと力をこめる。 10年前は二つの祖国ということはタブーだった。「日本では不満なら国に帰れと言われ、韓国ではそんなに日本がいいなら日本人になれと言われた。」 河さんは、両国の関係はずっと築き上げていかなければならず、W杯が終わったら終わりであってはならないという。孫も日本で生まれた。「韓国人としての誇りがある一方で、日本で生まれ育ち、ここでなくては暮らせないという思いがある」。本は在日韓国人としての生き方がつづられているが、日本人や韓国人だけでなく、他国の人にも国籍を置き換えて読んでほしいと話している。 韓国と日本、二つの祖国を生きる 紀伊国屋書店 |