◇清里で◇

リンクアイコン日記「二つの祖国・二つの故郷 ホームへ

清里に土地を買って40年、住まいを作ってから35年になる。清里に別荘ブームが来る前のことであり、小海線にはSLが走っていたのどかな時代であった。
清里が脚光をあびたのは列島改造論から始まり、リゾート法が制定されてからである。
軽井沢に見習えと掛け声をあげ、経済成長と共に八ヶ岳山麓は開発されて行ったのである。
清里駅前は軽井沢のような賑わいとなったが、街の発展を見るとうわべだけのもので、おもちゃ箱を並べひっくり返したような、幼児達のためのケバケバとした街になってしまったのは期待がそがれた。
バブルがはじけた途端、潮が引いたように静けさが戻って来たが、残された街は時代がかった映画セットのように見えて、花見のあとの宴のような空虚さが漂う。
今、落ち着きを取り戻した清里は再び、軽井沢に学んで本物志向のリゾート地を目指してゆくであろうと思われるが、時間がかかるのはいかんともし難いことである。
その時代の流れには無縁で、翻弄されることなく私は清里ライフ40年を送ってきた。
その間3人の子供を育て、体を癒し、自然の流れに身を委ねて送れたのは、浅川巧の故郷で生きているという、喜び一つの理由によるものだ。
愛して尊敬する浅川巧の故郷清里は、私にとって永遠なるものである。
浅川伯教・巧兄弟資料館を立ち上げた、大柴恒男高根町町長の訃報を2004年5月28日早朝、清里の家でNHKのニュースで知った。
大柴町長は、浅川兄弟を偲ぶ会を創設し、資料館を開館させるまでの7年間の働きと指導力は、実に見事なもので日韓親善と友好交流を有言実行された方で、浅川兄弟が現在に蘇ったように思える国際人であった。
偲ぶ会の事務局長であった清水九規さんから電話があった。お通夜と葬儀の知らせであった。
ここで困ってしまった。清里の家には喪服がないのである。少しとまどいがあったが私は意を決めて、ジャンパー服でお通夜に出向いた。
清水さんの案内でトコロテン式に焼香を済ませ周囲を見渡したところ、ジャンパー姿は私一人。黒々とした喪服の人々の中で私一人だけが浮いていたが、恥ずかしさなど微塵も感じなかったのは、故人との精神的な繋がりと想いが強かったからだ。
ご冥福を祈り、感謝を述べお別れの挨拶ができた事を喜んでいる。
清水さんが町長が亡くなられ、これから資料館のことが心配だと言った。
「何も心配することはありませんよ。流れのままに何事も良い方向に流れて行くでしょう。浅川兄弟の人徳と志の高さが私達を導いて下さることでしょうよ。」と私は答えた。