◇光州盲人福祉新開館竣工について◇

ホームへ リンクアイコン光州盲人協会トップへ

新会館竣工に寄せて―共に生きる

河正雄

光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校美術学名誉博士
朝鮮大学校招聘客員教授

2008年1月、黄英雄前会長から「今の会館が古くなり手狭な為に取り壊し、発展の為に新しい会館を建て直したい。協力してほしい。」と電話があった。

2月に会館を訪問した所、設計図が出来上がっていた。その図面を見ると駐車スペースが確保されていなかった。「市民や、サポートする人達の為の駐車場が必要である。」と指摘し、その計画に反対した。

3月に入り「隣接する66.2uの土地を買う契約をしたい。その土地を見てほしい。」という電話が入った。十分ではなかったが、すぐにその土地を買い求め設計をやり直した。光州市の支援を受け建築に入るまでには日数を要した。

この度、こうして新しい光州広域市視覚障害人福祉館が開館した。この喜びを胸に初心の忘備の為と、未来を望むにあたり協会の歩みを回顧する事は意義ある事と思う。

△                 △                  △
私は1982年正月、東京銀座で「祈りの芸術・全和凰画業50年展」を開催した。続いて京都、ソウル、大邱、光州と巡回展を開いた。

その4月、最後の光州展準備の為に光州を訪れた。企画、運営、交渉を1人でこなしていた疲れが出たのか、ホテルで寝込んでしまった。

その時に治療を受けたのが黄氏であった。1週間後には体調も良くなり、別れの日になって黄氏は「河さん、1つ相談があるのですが聞いて貰えないでしょうか」と遠慮深く切り出した。

「光州市には数百名、全羅南道には二千数百名の盲人がおります。今、私の周りで自立し生計を立てられる盲人は2、3名しかおりません。私は仲間が集って親睦、交流し、相互扶助をする場、自立する為の教育・訓練・研修が出来る会館、協会が欲しいのです。数年前から市や道庁の保険社会局を訪ねては私達の願いを訴え陳情してきたのですが、現在まで何の進展もないのです。」

悪夢のような忌まわしい光州事件が起きて間もない時であった。光州市民を震撼させた事件の傷は癒えておらず、社会の混乱が心の奥深くまで食い込み、鬱積した空気が重苦しく社会に充満していた時代であった。

「為政者といえども社会の公僕ではないか。市民も今、あなた方と同じく苦しみの中にいる。必ずや、あなた方の心を汲んでくれる人々がいると思うから、希望を持ってほしい。」と励ました。

△                 △                  △

雪深い秋田での高校時代、片道3時間の汽車通学をした。車中、秋田市の聾唖学校に通う学生達と親しくなった。不自由な彼らではあったが、お互いに手を取り合って助け合う姿は頼もしかった。貧困の中での高校時代、何度も挫けそうになる私を、彼らは無言の内に励まし、勇気づけていた。

高校卒業後、東京に出て会社勤めをした。夜学に通いながらの職場生活は破綻した。過労と栄養失調が原因で一時的に視力を失ったからだ。3ヶ月ほど治療を受けて、その苦悶から救われた。光明を見た時の世界の輝かしさと、その喜びは今でも表現出来る言葉が見当たらない。

私は過去の経験から黄氏の相談が他人事の様に思えなかった。
「為政者や市民に頼る前に、自らの意志と行動が先決ではないだろうか。自立出来る2、3名だけでも団結し、基金を少しずつ積み立ててはどうか。行動を自らが示しさえすれば、社会や市民にあなた方の心情を伝える手伝いをしましょう。」と約束した。

それから一年がたった頃、黄氏から便りが届いた。200万ウォンの積み立てが出来たという知らせであった。

彼らの自立への意思を光州市民にアピールした。そして市や道庁を訪ね支援をお願いして廻った。市や道はもとより、多数の市民から基金が寄せられた。1983年7月19日、その基金で湖南洞に25坪程の事務所を借り、活動を始めた。
△                 △                  △

1985年の事。会員も増えて自立する視覚障害者達が30名に達した。運営もつつがない事を喜んでいたところ、不幸な事に女性会員が2階から転落、20針も縫う痛ましい事故が起きてしまった。資金不足の為とはいえ、協会の事務所を2階に設置した事は思慮が足りなかった。起きて然るべき事が起き、心配していた事が現実となってしまった事に対し、慙愧の念に耐えなかった。

この事件が契機となり、私は土地を買って会館を建てる決心をし、募金活動の発起人となった。日本では在日全南道民会・東京王仁ライオンズクラブ・日本の友人達、韓国では木友会の画家達・東光州青年会議所会員・光州市民達に支援協力を求めた。1983年から1986年までに寄せられた募金6975万9457ウォンを道庁に寄託した。私は1億ウォンの基金を集めたいから、市内の土地を買って視覚障害者達の願いである会館を建てて上げてほしいと要請した。

 1年近く経ったある日、協会から便りが届いた。借りていた事務所の立ち退き要求の内容証明郵便が同封されていた。期限が来た為、会館を明け渡すように、という内容であった。

 彼らの居場所がなくなる。道庁に基金を寄託して1年近くにもなるので、何か施策がなされ進展があっただろうかと淡い期待を抱きながら道庁を訪問し、火急なる視覚障害者達の窮状を訴えた。

 しかし、その返事は「残り3000万ウォンを持って来るという事だったので、そのまま手をつけずにいる。」という無責任な返事であった。私は全身から力が抜け、気力を失ってしまった。孤立無援の状況に胸が張り裂けそうであった。

△                 △                  △

 日本に帰り3ヵ月後、お金を用意して私は光州に半月滞在した。東光州JCの会員達と友人達が会館敷地を探す為に連日市内を駈け回った。

 あれこれ物色し10日も過ぎた頃、南区史蹟公園の麓、不動橋近くの162坪の土地に巡り合った。1億530万ウォンの物件である。会員達は市内に近く、願ってもない土地であると希望した。

 基金は7000万ウォン弱しか手元になかったので、不足の資金は私が寄付する形で補った。土地は1987年8月26日、社団法人韓国盲人福祉協会に寄贈した。明け渡しを請求された事務所を引き払い、購入した土地上にあった古家に移転し活動を続けた。

 以後、数度会館建立の為に道と市に交渉を行った。それぞれから5000万ウォンの支援を得て着工に漕ぎ着け、1989年4月22日、開館した。当初、黄氏が要請したものは土地30坪、建物30坪であった。先を見越して土地162坪、建物154坪の規模になった。会員3人から始めた事業が、現在7000名もの視覚障害者を網羅する組織に成長する事になったのである。

△                 △                  △

 私のスローガンは「共に生きる」「共に仕事をしよう」である。我々と共に障害者も社会奉仕に参加し、その喜びと幸せを分かち合わねばならない。

 この事業は多くの人々の真心を結び合わせる事によって進められた。遠回りも、試行錯誤もした。障害者達が、この世の善意、友情、思いやりを「信じる」事が出来た事は何よりの救いである。
 そこには同胞達との出会いがあった。そして強い絆で結ばれた祖国があった。生きて生かされて今日この道を歩く喜び。この喜びを与えてくれた視覚障害者達の福祉が向上し,自立の精神が燃え続ける事を、全ての人々と共に祈りたい。

 新会館の開館を契機にして「豊かな福祉社会」「人間勝利の社会」が具現される事を祈る。私を見守り、愛し励まし、ご支援、ご協力下さった全ての方々に熱く感謝を申し上げる。

ホームへ リンクアイコン光州盲人協会トップへ