◇光州盲人福祉協会設立のきっかけ◇

 盲人協会会館

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1982年5月、全和凰展を光州の南道芸術会館で開催した。その巡回展(東京・京都・ソウル・大邱)の疲労のため、私は光州でダウンしてしまい、視覚障害者の黄英雄氏のマッサージを受けた。その時、黄英雄氏が私に頼み事があると言った。

 「全羅道にいる2500人の視覚障害者のために、盲人協会と会館を作りたいと数年前より道庁や市庁の福祉課を尋ねて数年間要請してきました。市や道から何の返事もなく、助けてくれないのです。」と訴えた。その時の光州市は光州民衆抗争の後始末で社会的弱者に目を向ける余裕などない状況であった。福祉など名のみの時代あった。

 私は彼に言った。「為政者を頼らず、障害者だから助けてほしいと言わずに、自分たちの力と努力で運命を切り開かねばならない。」と。「力のない、私達に何が出来るのですか。」と彼は私に尋ねた。「あなたのマッサージ代は6000ウォンですね。私が1000ウォンプラスして支払いましょう。あなたも1000ウォン出しなさい。あなたの同僚達とお客さん達の協力を得て募金活動をしなさい。マッサージをする毎に2000ウォンずつのお金を積み立てて基金を作るのです。200万ウォンの基金が出来たら連絡を下さい。あなた達の自立しようとする姿勢と意志が見えたら協力しましょう。」と約束した。

 彼らは1年後に私との約束である200万ウォンの基金を作った。それを元にして協会事務所を借り、引き続いて募金活動をして土地を買った。1988年、市や道から各々5千万ウォン、計1億ウォンの助けを受けて会館を建てた。「土地は30坪、会館は30坪あれば良いから頼む。」と彼は当初、遠慮して言った。私は土地を162坪購入し、会館は131坪のものを建てた。彼らや市と道、光州市民や在日同胞と日本人達の力の結集により官民一体となって作り上げた韓国で初めての盲人福祉会館である。

 「これでも少ないと思うが、私の力で出来るのはここまでです。」と私は彼に謝った。今、盲人福祉会館は会員が増えて手狭で動きがとれないほどの発展規模になっている。そのため幾度も、黄英雄氏から再度助けてほしいとの要請があったが、これからは市民等と市や道の官と共に、地域の問題は地域で考え、解決していくようにと私は指導してる。

 当時、福祉があってない時代だった韓国が、困難な時代でありながら助け合いの精神と英知、希望と展望を持つことの意味を、この盲人会館建立事業は教えている。会館建立後、「たかだか2、3億ウォンで建てた会館」という金銭的評価のみで、事業を評価する人が多かったことに寂しい思いをした。、出発時には市も道も100万ウォンを出すのが精一杯の時代があったことを忘れてはいけない。ちなみに私は会館完成まで7年間に50回も光州と日本を往来、指導をして来たのは、その社会的事業の価値に、金銭では計れない付加価値があったからである。私は多額の経費と時間とエネルギーを投資、全てボランティア精神で行なってきた。こうして生まれた盲人福祉会館の原点は哲学的精神を礎としている。福祉行政の先進として市がこの魂を受け継いでほしいと思っている。

光州市立美術館河正雄COLLECTION図録2003(2003.7.21)

新聞記事ご紹介

母国に愛の光--光州に盲人会館建設

目の不自由な人たちに自立の場を----韓日双方の募金によって韓国・光州市に建設が進められてきた全南盲人福祉会館がこの程完成し、明日22日に同地で落成式が行なわれる。

同会館建設は、在日韓国人2世の実業家が、盲人の訴えを聞いたのがキッカケで、建設基金発起人となり、85年から進めてきたもの。様々な苦労を伴いながらも善意の輪は韓日双方に広がり、約1億5千万ウォンが寄せられた。こうした市民の関心の高まりに、国と光州市もそれぞれ5千万ウォンずつを支援、会館建設が実現した。まだ福祉に対する意識が低いといわれる韓国で、市民による募金で建てられた施設だけに、障害者自身の自立に対する考え方や、福祉政策に一石を投じることになりそうだ。

全南盲人福祉会館は光州市西区社洞の535平方メートルの敷地に建てられた。建物は地上2階、地下1階で、延べ底面積は432平方メートル。治療室、マッサージ室、点字図書館、録音室、セミナー室など、盲人が自立するための施設が整った立派な会館だ。
盲人会館を建設するキッカケとなったのは、在日韓国人2世の実業家、河正雄さん(49)が故郷である光州市でマッサージ師と会ったことから。
河さんは82年在日韓国人画家の個展を開くため光州市を訪れた際、盲人・黄英雄さんから何度かマッサージを受けた。帰国直前になってか河さんは黄さんから「光州市内には400人、全羅道には2000人の盲人がいるが、自立して生計を立てられるのは数えるほど。われわれの相互扶助の場、自立するための施設ができないものか」と相談を受けた。
過去に失明の危機に直面した経験を持つ河さんは、黄さんの心情がよく理解できた。河さんは市庁や道庁を訪ね支援を要請、市民からも義援金が寄せられた。これに盲人たちが積み立てた170万ウォンを加えたお金を基金に、83年、市内に事務所を借り、(社)韓国盲人福祉協会の全南支会が組織された。初代支会長に黄さんが就任した。
河さんは次いで、川口青年会議所と姉妹関係を結んだ東光州青年会議所を訪ね、盲人協会へのバック・アップを要請し、約束を取り付けた。
河さんの目的は達成されたかに見えたが、ある事故で状況は一変してしまう。
85年、2階にあった盲人協会事務所から女性盲人が転落して大怪我をした。これがキッカケで河さんは、盲人たちに使いやすい独立した会館を建てる決心をした。このとき会館は30人に増えており、事務所も手狭になっていた。
河さんはその日から、建設基金発起人となって東奔西走することになった。韓国では画家や書家の協力を得て、絵や書のチャリティー即売会を開催したのをはじめ、企業からも賛助を得た。また、日本では河さん所属する在日全南道民会や東京王仁ライオンズクラブをはじめ個人からも賛同が得られ、募金が集まった。日本では同胞だけでなく日本人からも募金が寄せられた。
しかし、建設に対しては賛同者ばかりではなかった。
募金をお願いすると「なぜ韓国にまできて偽善をするのか、慈善をしたければ、他人の懐を当てにしないで自分のお金ですればよい」、「売名か名誉をえるためか」など非難されたこともしばしば。しかしこうした中傷に対しても河さんは。「共に生きる豊かな福祉社会を築こう」と訴え続けた。
こうした熱意に光州市では建設推進委員会が設立され、国と市から各5000万ウォンの支援も得られることになり、募金は一般の募金を合わせて2億5000万ウォンに達した。こうして昨年11月に着工の運びとなった。
22日の落成式には、全南道民会や東京王仁ライオンズクラブのメンバーら30人が祝賀代表団を組織して訪韓、現地の関係者とともに出席する。
河さんは今回の活動が韓国政府に認められ、20日にソウル・世宗文化会館で開かれた障害者の日の式典で国務総理賞を受賞した。
河さんは「会館建設へ協力したのは、盲人たちが自分の力で自立し、社会の中で生きていかなければならないという意識をもってほしかったから。韓日の連携プレーで事業を成し遂げ、いまはすがすがしい気分です。私自身もいろいろ学びました」と語っている。

東洋経済日報 1989.4.12記事から

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