◆浅川伯教・巧兄弟◆

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浅川巧

以心伝心

 浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会が発足したのは一九九六年の事である。会長大柴恒雄高根町町長は「浅川兄弟は我が町で最初に国際交流を試みた国際親善の実践者である。先祖が実践し中断された韓国との交流を再び引き継いでいきたい。町に浅川兄弟を顕彰する記念館を五年後を目標に建てたい。」と述べた。

 浅川兄弟が「韓国を愛した」話と功績を後世に伝え、韓国文化を紹介し、兄弟に縁りのある韓国の自治体との友好関係締結の準備を進め、交流する事を明らかにした。

 偲ぶ会は発足と同時に、兄弟に関する資料蒐集委員会が構成され資料蒐集が始まった。1997年11月27日には、ソウルにて浅川巧没後六十六年韓日合同追慕祭を開き、そして墓域の整備事業を始めた。遅きに逸したが高根町では一九九九年八月一日「町政要覧」にて、公式に兄弟を初めて紹介した。十月十四日には浅川巧縁りの韓国京畿道李進鎬抱川郡守らが、二〇〇〇年六月二十七日には韓国側の浅川巧先生記念事業委員会趙在明幹事長が、高根町を訪問し交流された。

 二〇〇〇年八月十八日には木造建築の図書館、郷土資料館と併設する浅川兄弟資料館が入る高根町生涯学習センターの起工式が行われた。事業にあたり日本林野庁の木材流通合理化整備特別対策事業の適用を受けたのは韓国の緑化と、環境保全など林業における浅川巧の功績を認めての事ではないだろうか。

 2001年3月30日には抱川郡を高根町町長が表敬訪問され、31日には韓日合同70周忌追慕祭が忘憂里の浅川巧の墓前で挙行された。6月27日には朝鮮日報が景福宮内にあった朝鮮民族美術館を取り上げ、設立した浅川兄弟と柳宗悦を追悼した。そして八月には韓国国立中央博物館所蔵品「今月の美展」において「膳」を取り上げ、「朝鮮の膳」(1929)の研究著作者浅川巧を「純粋な個人の努力と業績は、歳月を超えて我々に静かな感動として押し寄せてくる。」と紹介している。日を追って韓国内での評価は高まり尊敬を受けていることがわかる。

 こうした浅川兄弟を敬慕する韓日間の弛まぬ努力が実り2001年8月25日第六回偲ぶ会が開かれ、完成した浅川伯教・巧兄弟資料館が披露された。

 大柴町長は「高根町民憲章の理念に基づき、町民が広く交流の場として気軽に利用し、地域づくりの推進を図るため、生涯学習センターを建設しました。高根町出身で朝鮮に渡って朝鮮陶磁器の研究に生涯を捧げた兄伯教と、林業技術者として朝鮮の山野の緑化に尽くした弟巧が、現在の日韓交流に多大なる功績を、残した業績を後世に語り継ぐ浅川伯教・巧兄弟資料館と、町が有する地域固有の、伝統文化や歴史的遺産をも幅広く展示・閲覧可能な郷土資料館、さらに、図書館、視聴覚室等を備えた、本町における生涯学習・文化活動の拠点とすることを目的としています。」と挨拶された。そして韓日相互の尽力と善意が実ったことに謝意を述べられた。短時間に高根町を上げて資料館設立を成し遂げた町民の理解と情熱、その英知を賞賛し快挙を喜ぶものである。

 私は偲ぶ会の司会者から祝辞を述べるように指名を受けた。「昨日、親しくしている数人の高根町民とお会いしました。皆さん一様に浅川兄弟の事を知っておりました。そして資料館が完成したことを、私達の誇りですと答えられました。思えば十数年前までは浅川兄弟のことを知っておられる町民はおりませんでした。誇らしく答えて下さった町民の方々の表情を見て、浅川兄弟が郷土の人々から理解され受け入れられたことで、私は嬉しくなった次第です。

 ところが今年は教科書問題の為、韓国の対日感情が極度に悪化し、韓日友好交流が冷え込んでしまいました。静かに参拝し慰霊しなければならない靖国では戦場のように血が流れ、とても神社とは思われません。靖国問題は、もはや国内問題ではなく国際問題となっているのです。終戦後五十数年にもなる今日、歴史歪曲で今なお不信と葛藤の現実があること、問題の発端は殆んどが日本側にある事に、在日同胞として心を痛めております。現在七十万人もの韓国、朝鮮人が日本に住んでおりますが、韓日関係が悪化するといつも在日の私達が、苦しみ受難を受けるのであります。在日の私達は韓日友好親善の架け橋となるよう心を砕いており皆さんと近く親しく生きておるのです。力を合わせて共生社会を築かねばならないのです。

 私達は今日、完成した浅川兄弟の資料館が、民間交流による相互理解のメッセージを発信する拠点が出来たことを何よりも喜んでおり、感謝しておるのです。しかし誤った歴史認識の上ではお互いの国の理解なしで友好など有り得ないのです。いままで村山前首相や小泉首相など政治指導者らが話された言葉や文字には、建前だけで心がこもっておらず、どうも想いが伝わって来ないのです。過去に目をつぶらず未来を築く必要があります。

 先程、町長さんの挨拶の中で開館にあたり、資料蒐集したところ思いがけぬほど集まり、この度展示が全て出来ない。追って企画展などを開いて紹介ご披露したいと申されました。短期日で資料館が出来上がった事も喜びですが当初、資料がこんなに集まるとは誰が信じたでしょうか。これは奇跡ではないでしょうか。いや現実なのです。と申しますのは浅川兄弟が韓国の人々を愛し、韓国の人々から愛された足跡を見て、このような帰結になったことは浅川兄弟の遺徳のおかげなのです。

 浅川兄弟は言葉や文字だけでは伝わらない事柄を、韓国人に『以心伝心』心を以て心を伝えたからです。その心が今日お集まりの皆様や、在日の韓国朝鮮人や祖国の人々にも通じたからこそ、このような偉業を成し遂げることが出来たのだと思います。

 私は今日、浅川兄弟から新たに『心を以て心を伝える』ことの大切さを学び、人生の糧と致します。『心を以て心を伝える』対話と交流を進め、未来の平和に貢献いたしましょう。本日、資料館の開館を祝し、浅川巧没後七十周年を追悼供養できましたことを幸いに思います。」

 町の広報による資料館の案内を記す。


「高根町出身の浅川伯教は一九一三年に、弟巧は、一九一四年に朝鮮へ渡りました。

 兄伯教は既にその伝統や技術が受け継がれず廃絶していた朝鮮陶磁に魅せられ、地道な実地調査を踏まえ、その歴史的な流れと価値を見出し、保存と伝承に力を尽くした人物です。

 弟巧は、朝鮮での植林技術の研究で数々の成果をあげ、その仕事に生涯を捧げました。日常では朝鮮の暮らしに溶け込み、朝鮮の人と共に生き、朝鮮の民芸品の美を探求するなど、朝鮮の人の立場で朝鮮を捉えることの出来た数少ない日本人でした。

 資料館では、二人の業績を紹介すると共に、二人の心の軌跡を辿りながら彼らの功績の本質部分を探っていきます。」

 浅川兄弟に寄せる韓日両国の想いと善意が結晶した資料館を紹介する。浅川兄弟の親族、そして遺族、関係者から寄せられた、いまでは入手する事が難しくなった伯教の著書「李朝の陶磁」と「釜山窯と対州窯」、巧の「朝鮮の膳」と「朝鮮陶磁名考」等、浅川兄弟についての文献資料もほぼ全て収集し、展示している。

 遺品では伯教が愛用していた「朝鮮の膳」の他、伯教作の茶碗、皿、書画などが並ぶ。先にソウル在住の金成鎮氏が永年守り、高根町に里帰りさせてくれた、浅川巧の貴重な日記も展示された。研究成果を生かし育てた苗の植え替えを行う姿、古陶磁窯跡を調査する浅川兄弟の姿がジオラマで再現され「朝鮮の美を愛し、朝鮮の緑化に努めた」二人の業績を知ることが出来る。

 そして池順鐸を「父」と、巧を祖父と慕うソウルの鄭好蓮氏が寄付した七十三種、百十八点の陶磁器がある。祭礼器、食器、茶器、文房具、化粧容器、室内用具など、多種多様な陶磁器のコレクションは、韓国でもなかなか一度に見ることは出来ないものだ。

 もう一つは、巧のかつての職場、現在の韓国林業研究員のOBたち(幹事長・趙在明氏)が寄贈してくれた朝鮮民族美術館旧蔵品の写真数十点である。これらは韓国でも紹介されていないものだ。私は伯教と交流があり韓国の古陶磁復元に大きな業績を挙げた池順鐸、柳海剛両氏の作品(『白磁の人』と呼ぶに相応しいシンボリテックな『白磁無地壺』と葡萄を名産とする山梨をイメージする『青磁陽刻葡萄文瓶』など)七十一点を寄贈した。百八十平方メートルの資料館であるが内容と質において全国に誇れる「朝鮮民族博物館」が出来上がった。

 私は寄贈にあたり「条件といいますか、これら伝統工芸品を展示して、ただ観ていただくのではなく、浅川兄弟が残した功績を学び、日本と韓国の友好親善、交流に寄与貢献できますよう、情報発信の拠点であって欲しいと存じます。又、来館する人々に感動を与えることの出来る展示を心がけて欲しい存じます。」と申し入れた。さらに私は開館された資料館の運営面について具申した。資料館は器(建物)や展示物の見せ物ではない。資料を基に開館に至るまでの歴史的背景、浅川兄弟のヒューマニズム、博愛の精神を広め、追慕する善意の韓日の人々の心と心の触れ合いを学芸研究し、その成果を世界に発信して欲しい。資料館を町内の小中高校や国内の学生達の、現場教室としての教育の場であって欲しい。願わくば在日の学生や韓国の学生達との、交流の場となれば相互理解は一層、進むことであろう。一度資料館に入ると自虐的史観など芽生えない。心が安らぎ郷愁が甦る。優しくなっていく自己を取り戻すことだろう。生涯学習センターの名に相応しく、平和と信頼を築く学びの資料館であって欲しいと祈念している。

 敬愛する浅川兄弟は希望を与え永遠に私の心に生き続ける。

河正雄「韓国と日本・二つの祖国を生きる」明石書房(2002.3.25)

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