左から
@2004年8月6日、門前にて偶然に韓国学生と出会い急遽、案内をすることに
A中腹から本堂を望む
B無縁の霊碑全景

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高麗王と眠る

 一九九五年秋のこと、私は家族らと共に被爆都市広島市を訪ねた。光復五十年の節目に広島での差別の象徴であった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の参拝が目的であった。平和公園の石碑には「過ちは繰り返しませんから」と誓いの詞が刻まれていた。主語は日本人が反省する言葉ではなく「人類」だという意味を知ったのはその時であった。

 人間死ねば皆な仏。仏は皆等しく祀られると私は思っていたのだが、韓国人犠牲者は平和公園内に祀られるのではなく、公園外の対岸に慰霊碑が無神経に建立されていた。平和都市を宣言しながら侵略戦争の反省がない無情さを知り、がっかりさせられた。無念なる二万余人の韓国人原爆犠牲者達の霊を追悼し、分け隔てなく、一日も早く平和公園内の全ての霊と共に慰霊される事を祈った。私はその時なにげなく慰霊碑の裏に刻まれた建立者名の中にある「尹炳道」という名を記憶した。

 翌春の事である。私が所属していた東京王仁ライオンズクラブの先輩から「埼玉県秩父市に住んでいる在日一世で伊藤さんという方が河さんの故郷である全羅南道霊巌の『王仁廟』にケヤキの植樹をしたいと言っているのでその橋渡しをしてもらえないだろうか。」という電話があった。奇特な一世もいたものだと思ったが、私自身も奇特な人間と言われた事があるので自嘲した。

 孫子の代の事を想って「愛する祖国と故郷の為に在日同胞の心として、一人が一本のケヤキを植える運動」を、九四年からボランティアで始めたという情熱と使命感に、意気を感じて橋渡しを引き受けた。王仁廟は全羅南道公園史跡である為、無作為に植樹する事は出来ない。私は全羅南道霊巌郡庁に伺い、趣旨を述べ、書類を提出し許可が出たところで「韓国植樹の日」に二百本のケヤキを植樹する事になった。

 植樹の日、伊藤さんと王仁廟で待ち合わせ初めて顔を合わせた。ジャンパー姿で野良着に等しい出で立ち、首には白いタオルを巻いて作業人風の姿であった。「私は土方です。秩父で農園をやっている者です。」と言って名刺を出された。手渡された名刺を見て私は面食らった。それには「尹炳道」と記されていた。その時私は広島の慰霊碑に刻まれた「尹炳道」という名を思い出したからだ。偉大な人と意外な所で出会うものだと御縁を感じ、しげしげと見つめ直した。

 植樹を終え光州空港でソウル便を待つ時間があった。その時、尹炳道さんから「あなたが田沢湖の姫観音や田沢寺の朝鮮人無縁仏の供養をしている事を以前から知っていました。私は今、埼玉県日高市にある高麗神社に隣接する聖天院に朝鮮人の慰霊碑を建立する為に土木工事をしています。日本に帰ったら一度見て欲しい。そして是非慰霊碑建立に協力して欲しい。」と相談を持ちかけられた。意外な話に戸惑ってしまったが広島の慰霊碑をも建立された程の方だから、篤を積まれているのだと思い直し、聖天院を尋ねる約束をその時したのである。

 聖天院には十年前にもなるが参拝に行った事がある。その時阿弥陀堂建立の瓦奉納をした思い出がある。懐かしい山門をくぐり登った所に「二〇〇〇年竣工」と書いた新本堂建立計画の掲示板があった。本堂の裏山では新本堂建立敷地の土木工事がなされておりブルドーザーが山を削っていた。尹さんが言った朝鮮人慰霊碑の建立敷地は更に奥まった所にあった。山を削り立木を払い造成の最中で一大土木工事が進行していた。大規模事業で予算も2〜3億円と聞いて度肝を抜かれてしまった。在日事業家ら有志から篤志で賄うので事業費は心配はないと尹さんは言ったが少し不安になった。

 紹介された聖天院第五十世横田弁明住職が、尹さんとの出会いと経緯を話された。「平成七年の或る日、二十数年来交誼のある尹炳道さんが来山した折り、終戦までの数十年間に沢山の無縁仏が日本のあちこちに散財したが、誰も奉る者も居ない。何とかこの地に葬り供養したい。戦争中全く日本人と同じ気持ちで過ごし終戦を迎えたという在日の尹氏の言葉に感銘を受け、早速総代に事の次第を報告、役所のあちこちを奔走し、尹氏の心が形となって実現しました。心が形と成り、形は人々の心に映じ、心によってこれを支えていくものです。形なき世界に心を寄せ、今後一層確かなものと成る事を念じます。遙かなる古の先祖、同胞を祀る異国の地に心ある同胞が静かに冥福を祈る時、生きている我々の心が通じ合い、安らかな世界が展開するのではないでしょうか。」

 住職は東京芸大で彫刻家山本豊市門下で学び平山郁夫と一緒に学んだ芸術家僧侶であった。地元で教職に就かれた後、聖天院住職になられたと聞いて私は美術を愛好する者として住職を身近に感じた。

 私財を投じてまで何故このような事業を思い立ったのか。

「在日韓民族慰霊塔と慰霊碑は民族統一を願い、日本国内に於ける民団や朝総連の垣根を超え、関東大震災、第二次大戦で犠牲となった同胞の御霊と、渡来人の御霊が安眠できるように供養したい、との願いを込めて発願しました。

 私が高麗の地に『白衣民族の聖地』をつくろうと思い立ったのは、李方子妃殿下が聖天院を訪れた二十数年前に遡ります。妃殿下は、私を前に『自分が死ねば高麗若光の隣に骨を埋めたい』と語った。生前妃殿下の願いは叶えられなかったが、それ以来『朝鮮人、韓国人の全てのお骨を拾ってあげよう』という気持ちになったのです。

 まず、思い浮かんだのが関東大震災で犠牲になった同胞の霊。東京・目黒区の祐天寺に保管されたまま、引き取り手のない第二次大戦当時の同胞軍人・軍属の遺骨。いずれは全国に散らばる引き取り手のないまま、放置されている無縁仏を安置したいのです。

 ここを白衣民族の聖地にすれば、朝鮮人も韓国人も区別無く、いろんな人が好きなときに来て線香を手向けられると思う。完成したら毎年十月三日の開天節に合わせ法要をしていきたいと思います。六・二五動乱の最中、何の罪もない同族が死んでいくのを目の当たりにしたので『白衣民族の聖地』には南北の平和統一を願う気持ちも込めました。

 聖天院新本堂新築の基礎工事も請け負いました。境内奥にそびえ立つ慰霊塔は高さ十六メートル。石塔としては日本最大、日本との過去の不幸な関係を象徴する意味で三十六段階にしました。その下の納骨堂には、名前と生年月日の判明している遺骨と無縁仏の安置所です。

 七十万柱以上納めることができます。たとえ遺骨が無くても、納骨堂の裏には遺骨の埋葬場所の土を『トラック一台分』納められるだけの穴が六つ掘られています。

 慰霊塔左手には三・一独立運動縁りの地、ソウルのパゴタ公園にある八角亭を縮小再現し、その建材は全て韓国から運び建立します。慰霊塔後方の高台では壇君像が一際高見から『聖地』を見下ろし、傍らに申師任堂、太宗武烈王、王仁博士、鄭夢周など韓国の偉人の石像を並べたいと思います。韓国文化庁とも相談して決め、石材は韓国産の花岡岩を使います。

 埼玉県日高市にある高麗山聖天院勝楽寺というお寺は、実に不思議なお寺で、そこには天皇家縁りの菊の御紋があるんです。高麗という地名にもあるように、半島からやってきた人々が住み着いて開拓した地です。記録にはありませんが、韓国の三国時代に新羅に破れた百済(ペクチェ)の民が渡来してきて、ここに住み着き、その後、高句麗の渡来人達がやって来たのではないかと思います。

 『続日本書紀』によれば当時、高麗人を率いた高句麗七代の王子、若光王がここを開拓したと記されています。当時の半島は日本よりも先進文化を持っていて、その技術を以て稲作を始めたのだろうと思っています。この地には、埼玉県重要文化財指定の巾着田の遺構が残っていて、当時、稲作が初めてもたらされた事が判っています。ここを開拓定着するようになったのは、半島での三国時代の関係が影響して、当時未開の地だった関東平野が生かされるようになったのではないでしょうか。

 不思議な事に、この地は韓国の風水の専門家が見ても素晴らしい土地で、日本の中心の地であるとも言われています。聖天院勝楽寺は約一二五〇年の歴史を持っている古刹で、正に白衣民族の聖地にふさわしい所ではないでしょうか。」と発願に至る想いを尹さんは語った。

 協力するようになった私は納骨堂の壁面には五大陸の平和を祈る「祈願の形象−平和の使者・鳩」(作者・朴炳煕・韓南大学教授)ブロンズレリーフをあしらった。この作品は私に縁りのある田沢寺(秋田県田沢湖町)の朝鮮人無縁仏を慰霊する「よい心の碑」の壁面、韓国光州市立美術館の壁面にも設置している。

 海峡を超えて魂だけでも自由に往来し、羽を休めて欲しいという念願からであり、未来の春を忍び慰霊のよすがになることを祈願する為である。

 また慰霊塔前と王仁霊廟前には霊を守護する「羊の石像」をそれぞれ配置した。一九八一年春の事である。京都平安神宮近くの美術商の店先に「羊の石像」が置かれていた。それは新羅時代の物であった。「名前をお教えする事は出来ませんが戦前に外務大臣を務めた方の芦屋の別荘から出た石像で今は遺族が熊谷に住んでいます。多分、戦前に韓国にあった物でしょうね。」そう言って芦屋の別荘に置かれていた石像の写真を美術商は見せてくれた。「羊の石像」は韓国の高貴な方の墓の守り神として安置した物である。その時代の物は骨董品として持ち運ばれて、その像は韓国でも貴重な文化財である。韓国の歴史の証人である「羊の石像」は我が家の庭に安置されていた物である。韓民族無縁の霊碑を守護する事になったことは本来の役目を担う為に収まる場所に収まったのではないかと私は胸を撫で下ろしている。

 一九九八年七月十三日の盆の入りの日に我が家から釈迦如来像を聖天院本堂に納め安置した。その日は我が家に初めて男子の孫(河家三十五代目)が誕生し、喜び満ち溢れた日となった。像の作者澤田政廣氏(文化勲章受章・熱海市立澤田政廣記念美術館)自宅に伺い釈迦如来像の制作を依頼したのは一九八二年の事である。先生は八十八才にもなっておられた。お願いしたところ約束出来ないと言われた。二十世紀の時代に、日本国内で不幸にして亡くなられた、我々の先輩や先祖の霊を慰める為の仏像を彫って欲しいという、私の熱意を承諾して下さったが、高齢なので本当に像が出来上がるかどうか私自身、半信半疑となったが先生は意気を示して下さった。像が完成したのは一九八五年。像を引き渡される時、先生は「これが私の最後の作品になるかもしれないね」と私に言われた。この像には先生最後の全霊が込められているのだと思い感謝の念を強くした。先生は一九八八年九十三才で旅立たれた。

 また一九九九年三月二十九日、慰霊塔慰霊碑の左右と、新本堂前に各一本、王仁霊廟前に二本、計五本の秋田県角館の枝垂桜を植樹した。私が少年時代を過ごした母校の先輩である奥田敦夫先生の御好意である。秋田県角館の枝垂桜は江戸彼岸桜で国の自然天然記念物に指定されている。樹齢二百年以上の老樹が華麗に咲き誇る角館の武家屋敷の風情は日本の風景を代表する景観である。聖天院に白色の枝垂桜が舞うように咲き誇る日は遠くない。

 住職と尹さん、私のトリオには完成までには紆余曲折があったが二〇〇〇年十一月三日に落慶の日を迎えた。その日は尹さんと私の誕生日だという偶然を知った。前日は台風崩れの暴風雨が当日は収まり、つつがなく落慶法要が営まれたのは仏様のご加護かと思った。

 その式典で私は心を込めて式辞を読み上げた。

 「高麗山聖天院勝楽寺において、痛恨の歴史を心に刻み浄化するために、聖天院本堂落慶法要を記念して、在日韓民族無縁之霊碑除幕、開眼法要が厳粛に執り行われますにあたり、謹んで式辞を申し述べます。

 振り返りますと20世紀は韓日、朝日、両民族の歴史に於いて、まさに激動の時代でした。在日同胞百年の歩みはまさにその象徴であります。この百年の間に、祖国を離れた遠い異国の地で、望郷の思いを噛みしめながら痛恨の生涯を終えられた人々はどれほどの数になるでしょうか。いたずらな経済的繁栄の中で過去を忘れ、歴史の事実が埋没せぬように異国に果てた犠牲者の無念を慰安せんが為に、数年前、ここ聖天院本堂建立を記念して埼玉県居住の在日一世尹炳道氏が発願し、聖天院寺域の奥山に、在日韓民族無縁之霊碑並びに納骨堂と慰霊塔を建立されました。

 民族の統一を願い、民団、朝総連の垣根を越え20世紀の時代、歴史の中で犠牲になられた在日同胞の御霊と渡来人の御霊が安眠出来るように供養したいという願いからであります。

植民地時代と戦後、そして今日に至るまで我が同胞は家業に精励し、子弟を養育しあらゆる苦難を乗り越えて祖国や日本の発展に大きく寄与貢献してきました。人間らしく生きるために人権を守り人格を高めてきた在日のヒューマニズム魂は誇り高く崇高で健全である発露であります。

 この慰霊祭が心ある方々の尊い浄財によって開かれますことはひとえに聖天院様を始めとする、関係各位の皆様がそれぞれの立場を乗り越え真の平和と友好を願い心を一つにしたことの賜物と思います。

 1250年の縁起をもつ、高句麗王若光を祀る聖天院本堂建立落慶法要の記念すべき節目の日に過去の不幸な歴史を風化させることなく、21世紀を担う世代へと伝えていくことは我々に課せられた、大きな使命であり勤めであります。

 慰霊碑の建立は、皆様の願いを新しい世紀へ伝える、新たな決意としての第一歩であり、誠に意義深いものがあると思います。祖国の平和的統一と、恒久的平和を念願し、何よりも在日同胞の和合をもって範を示さなければなりません。また歴史的な南北会談の実現により統一の願いが現実に近づきました。

 私たちは二一世紀に向け、良き兄弟として、争わず、信じあう良きパートナーとして、善隣関係の絆を結んだことを、何よりの英知で誇りとします。

 私たちは自省してよい心、広い心、同じ心を通い合わせて、未来の子孫のため、世界のため、人類のために寄与貢献し、豊かで平和な二一世紀を創造する起縁を結んだことを、犠牲者の過去帳と記録文献を納骨堂に奉納し、無縁仏様にご報告出来ますことは何よりの供養となる事でしょう。厳しい歴史の苦痛に満ちた痛恨の中で逝かれた我が同胞、そして犠牲にあわれた諸霊のとこしえに安らかなることを祈ります。

 最後に手厚く朝鮮人無縁仏の霊を祀り、霊碑建立を認め供養して下さる聖天院様、本日の法要を司って下さいました真言宗智山派管長宮坂宥勝猊下を始め埼玉第11教区内の各住職様方、慰霊碑の御揮毫下さいました三塚博様に厚く御礼を申し上げます。今後、聖天院様には護持のため多大なるご尽力を頂くこととなります。皆様のご奉賛により支え守り育て、盛り立てて下さることを祈念致します。

 本日、御慰霊下さいました皆様方の御健勝と平安、仏菩薩様の御加護あらんことをお祈り申し上げ式辞と致します。」

 私は在日一世尹炳道さんの祈りと願いを実現する為に二世として協力させていただいた事を天の配慮と参席者に感謝した。

 落慶を終えた年末の事である。在日の老人ホーム「心の家族」の尹基さんが毎日新聞社の福祉賞を頂くという事でその授賞式に参席した。その席に統一日報の記者が取材に来ていた。

 「河さん、広島原爆の韓国人慰霊碑は戦後24年経っても建立されない事を嘆き続けた地元被爆者の故尹炳道さんの提唱によって活動が始まり一九六七年春建立されたんだよ。秩父の尹炳道さんとは違う方だよ。」と記者に教えられた。そこで初めて同姓同名の別人だという事を知った。「広島の尹炳道さん」と「秩父の尹炳道さん」を短絡的に同一人物と思い込んでいた私だったが、二人の尹炳道さんと出会えた事はどちらも縁以外の何者でもないと思った。

 というのは落慶法要の時、私は広島の原爆犠牲者の過去帳(一九六九年から一九八七年迄のもの)二四八九名の名簿を聖天院に奉納したからだ。そして広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑は一九九九年になって平和公園内に移築安置された事を故尹炳道さんに報告した。

河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる」明石書房(2002.3.25)及び聖天院本道建立落慶記念誌(2000.11.3)
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