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 守られた柿の苗木


二〇〇〇年二月の事である。水戸芸術館へ学芸員に会う用事があって訪問した時の事である。館内の展示を見ていたところ、子供達の賑やかな声がするので、つい誘われるようにその部屋に入った。「時の蘇生」柿の木プロジェクトと称するアートプログラムで子供と父兄が折り紙を折ったり、メッセージを書いたりとワークショップを楽しんでいた。

 「一九四五年長崎に原爆が落とされ、あらゆる物が死滅したが、一本の柿の木が生き残っていた。一九九四年、樹木医である海老沼正幸氏が被爆した柿の木から二世を生み出し、子供達に配る活動を開始した。一九九六年、現代美術家である宮島達男はその二世の柿の木に触れ、その活動をアートとして応援していくプログラムを考えた。そして世界中の子供達に「被爆柿の木二世」を体感し育てて貰う植樹活動を推進するノンプロフィットのユニット、『時の蘇生』柿の木プロジェクト実行委員会が作られ活動を始めた。そのコンセプトは三つ。それは変化し続ける、それはあらゆる物と関係を結ぶ、それは永遠に続く、である。このプロジェクトは「被爆柿の木二世」を通して一人一人の『時の蘇生』を目指すアートプログラムである。」と説明されており、そこで私は初めてプロジェクトの存在と始まりを知る事となった。

 一九九九年ベネチア・ビエンナーレに参加し現代美術の旗手として日本を代表する柿の木プロジェクトの主宰者、宮島達男は第四回二〇〇〇年光州ビエンナーレの出品作家でもあった。私は第四回二〇〇〇年光州ビエンナーレの展示企画委員であった事から記念として柿の木プロジェクトを光州に招請したいと宮島達男に申し入れたが「柿の木を植える時期と時間がないので来年以降にしましょう。」と断られた。しかし私は「二〇世紀の美術の“かたち”である宮島達男の表現、『時の蘇生』柿の木プロジェクトは韓国も考えるべき問題である。苗を巡る人々の全てがアートだというあなたの作品として光州ビエンナーレ開催中に植え表現しましょう。」と説得した。こうして二〇〇〇年四月四日、光州ビエンナーレメイン会場正門近い中外公園の一角に柿の木の苗木は植樹された。

 アメリカの公立植物園では植樹式に行政関係者は出席しなかったというが、当日、光州では市長を始めとする機関長が出席し、ビエンナーレ記念公演を行った秩父屋台囃子の大太鼓が鳴り響く中で政治を超えるイベントとなった。

 しかし、その苗木の運命は儚いものであった。ビエンナーレ会期後、何者かに引っこ抜かれてしまったのである。理由は「枯れてしまった」「国民感情から」というが私はその時、苗木を植える時期が悪かった事、イベントを急いだことが原因であると反省した。だが、その時点で既に教科書問題は燻り始めていたのであった。

 翌二〇〇一年春、再度植樹することとなったが光州の雰囲気は一変していた。教科書問題が深刻になっていたからだ。「こんな時、誤解を受けてまでやる事はないのではないか。」と反対された。しかし「原爆の被害は柿の木だけの問題ではない。人類全ての平和を願うシンボルとして光州に植えた意義は大きい。これを育てていこうとする我々の意志と行為が未来の人々に希望を与えるのだ」と言って私は押し切った。公園の管理所長は枝を分枝し植樹しようと言って用心の為、数本分枝し植樹した。 それから二ヶ月経って芽が出たかと心配になり光州に行ったところ心配していた事が現実になった。「芽が出たと喜んでいたら、誰かがハサミかナイフで芽を切り取ってしまっている。」という報告があった。何の罪科もない長崎柿の木の苗木の運命は現世に於いても二重三重の苦しみから未だ救われず、解き放されていない現実は余りに無情で悲しい事だ。原爆の現実の中で生き延びた強靱な柿の木の生命から、今我々に課せられた試練に生き続ける柿の木から激励を受け、その尊い姿を見る事で学ぶ事は多い筈である。

 現実が厳しいからこそ、政治の壁を乗り越え、感情を克服して平和の祈りを受け継ぎ、生かし続けていく事が柿の木プロジェクトの本義なのだと改めてその時、確認した。わずかに残った芽は我々の願いを滋養として生き延びる事であろうと祈願している。

民団新聞 2001.8.22(構成前原文

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