◇NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」での講演@◇

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 アンニョンハシムニカ。こんにちは。韓国人が日常する挨拶です。日本は、朝はおはよう、お昼はこんにちは、夜はこんばんはですね。韓国ではアンニョンハシムニカ・・・。私はハ・ジョンウン(河正雄)といいます。初めて聞いた方は「は?」「ハです」と言うと「は?は?は?」と。そして理解出来た時には「はははは」と笑ってますけど。(会場から大きな笑い)。それくらい皆さんにはなじみのない名前のようです。

 今日はモクレンの会で、私をこうして呼んで下さって、皆さんにお会いできたことを光栄と思っております。先ほど紹介を頂きましたが、関東大震災の集会で八木ケ谷先生とお会いしたことで御縁が出来て、八木ケ谷さんがとても私に関心を持たれ・・・、関心以上に友情みたいなものを感じてるんじゃないのかなと思うほど、私にいろんな面で配慮して、こういう会が今日実現したんじゃないかと、大変嬉しく思っております。この会にあたって、実はもっと前に何度か企画を与えられたんですが、今年は個人的に用がとても多くて、お話する時間を作れなかったために、今日になりましたことをお詫び申し上げます。

 いずれにしましても、私が自己紹介をする前に、皆さんから自己紹介をいただいて、大変光栄に思います。お1人1人、私は名前を記憶ができないかもわかりませんけれども、今皆さんが自己紹介でお話しされたことは、もう頭の中に入っています。大変私に対して興味があるんだと、また楽しみであったと話され、これは嬉しいことです。興味がなければ、私も本当に空々しい話になっちゃうんじゃないかと思います。それから朝鮮の方と親しくつきあってきた、そしてつきあえると言って下さったことに対して、気持ちがなごやむというか、皆さんと一歩でなくもっと近く近づいたんじゃないかなと感じております。

 今日与えられた時間が1時間ということなので、1時間のあいだに、実は私もいろいろ皆さんにお話をたくさんしたいんです。することを整理して、これくらい資料を持ってきましたけれども、この資料を元に話を終わらすには2〜3日かかると思います。それを1時間で何とかお話をするということですので、話が脱線してしまうと困ります。私がする話について、皆さんが興味があって楽しみにしてるのは重々わかります。わかりますけれども、基本的なことを皆さんに理解していただきたいと。基本的なことを理解出来たら、私のことについても非常に理解が早くなると思うのです。韓国について、それから在日について、早く皆さんがわかってくれるんじゃないかと思います。
今日の大きなタイトルは「韓国理解」と。韓国人、韓国という国を理解する基礎的なことをお話をして、2番目には、「在日」をどういう具合に皆さんが理解しているのか、在日理解の話をしてみたいと思います。それから3番目は、皆さんがNPOで社会貢献をなさっておりますので、国際交流についての私なりの考え方。皆さんが社会で実践をなさって、貢献をなさっている方々にお話するということ自体が、大変恥ずかしい事ですが、私の考え方を述べてみたいと思っております。

 まず始めに改めて自己紹介します。私は東大阪市で生まれました。1939年です。昭和14年ですが、この年は第二次世界大戦が勃発した年。また我が国は植民地時代で、強制連行が法的に施行された年です。それから創氏改名が法制され、名前を日本の名前にしなきゃならない。「ハ」じゃなくて、創氏改名で日本名「河本正雄」となりました。そういう年に生まれたものですから、前後にというか、先にというか将来にというか・・・、非常に展望のない年に生まれたと言えるんじゃないかと思います。
いずれにしましても、日本で生まれた在日の二世でございます。生まれた後すぐに、秋田県の田沢湖町に生後6ヶ月・・・まだ赤ちゃんの時です。そこで父や母は労働者として、田沢湖をダムとして周辺に発電所を作る工事のために、秋田へ行ったわけです。そこはとても雪の深いところですから、母親は暮らしていけないというので、2年後に、お父さんを放っぽり投げ、別れるということで、私1人だけを連れて韓国の故郷ですね・・・全羅南道の霊岩というところです・・・、お母さんと2人だけで帰りました。霊岩で妹が生まれました。ということは、行く時には下の妹がお腹にいる事を知らないで。妹が霊岩の田舎で生まれた後、早く親父のところへ帰れということで、また日本へ参りまして、秋田へ行きました。

 そしてだんだん戦争が激しくなって、秋田でも強制連行の方たちがたくさん来るようになりまして、そうしている間に戦局が悪くなったために、食糧は尽きてきたし、秋田でも暮らしていけないというので、生まれたところの東大阪へと戻りました。それが終戦間際です。終戦は東大阪の生まれたところで迎えました。そして終戦後・解放後すぐ、韓国へ帰るということで船の手配をしましたが、なかなか船に乗れませんでした。それでしょうがないのでまた秋田へ舞い戻って生活を始めました。そして高等学校3年卒業するまで秋田で暮らしました。卒業と同時に埼玉の川口へ移り住んで、今年で42年になります。そこまでがだいたい20歳くらいまでの歩みです。

 その後どういう生き方をしたのか。これは私が1993年に書いた「二つの祖国」という本です。「二つの祖国」という、考え方をした人はいたのはいたんですね、在日にも。「二つの祖国」という考え方を、日本の方は「お前は朝鮮人なのになぜ日本が祖国なんだ」と、在日の人と本国にいる人たちは「お前は韓国人なのに何で日本が祖国なんだ」と、疑問というか中傷というか、受けました。その想いを口にしたり文章にしたりして、はっきりと表に出したのは私が初めてだと思うんです。僕は20歳代の若い時から、そういう考え方で生きるようになった。その原因というかきっかけをですね、これからして参ります。

Aに続く

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