◇NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」での講演G◇
先ほど「アンニョン」という言葉を言いました。天皇陛下がよく使う、よくおっしゃる言葉ですね。国民に向かって「国民の安寧を祈ります」って言いますよね。天皇陛下が一昨年、「日本の天皇家は百済人の後裔である」ということを、元旦にお話なさった。この脈が王仁の時代からもうあったということです。 皆さんの中では天皇制について反対する人もいるし、天皇に対していい感情を持たない方もいると思います。以外と日本人の中でいらっしゃいますね。韓国人にもいますけどね。僕はマインドが違ってて、非常に近くて、自分たちと同じ出自であるというような感じで、こういうお言葉をいただくと、非常に近く親しく思うのです。仁徳陵を発掘なされば、歴史を証拠立てるものがたくさん出てくるというお話を、学者は話されています。王仁(ワニ)博士がなさった国際交流の話ですね。 脈々と今も続いているということですね。誇りを持って、父母の故郷の往来をしながら、民間人として友好親善の橋渡しをしようという考え方ですね。こういう先賢の偉人から学んでいる。日本では枚方市に王仁(ワニ)のお墓がありますよ。大阪府の史跡になっています。日本人も今この王仁(ワニ)博士に学んで、友好親善をしている。 東京にも王仁(ワニ)博士の史跡がありますよ。どこにあるかって言ったら上野公園です。上野公園の西郷隆盛像の裏側にあります。立派な大理石の碑ですよ。脈々とした千数百年前の友好の歴史、日本との文化の友好の礎が、こうして日本にも残っている。韓国にも、東京にも残っている。そして私たち後裔たちがいるということですね。国際交流の先賢たちから学ぶということの意味は大きいと思います。 空海さんが中国から帰られて、この人ほど中国語を堪能して、密教というものを持って帰られ、日本の文化の夜明けをした人はいないと思うんです。私も尊敬しているんです。空海さんは、朝鮮から来た「論語」・・・儒教の学者が日本に来た時に、非常に歓待をしていますね。 中国の文化ばっかりに尊敬があったのじゃなくて、朝鮮の使者や学者達とも交流があり、日本国で厚くもてなしたという記録が残っています。先賢のつきあい方はそれは立派ですね。 空海さんの言葉の中で一番僕が好きなのは、「受けた恩に対しては石に刻み与えた恩は水に流せ」、空海さんは、もっと難しい言葉で言ったんですが、でもそれをやると翻訳しなければならないので省略します。空海は、中国から受けた文化に対して、朝鮮から受けた文化に対して、石に刻んだ・・・。 そして使者が来た時には礼を尽くした。空海の書物を1つ読んでみたらいいなと思うくらい、感激的な応対をしているんですね。人対人の交流をする時も、文化の交流をする時も、先人たちは尊厳と感謝をもって立派なつきあい方をしているということですね。これは学ぶ点であります。 それから次に「朝鮮通信使」、皆さんよくご存知でしょ。豊臣秀吉がああいう仁義のない侵略をして、徳川家康が、あれはバカげたことだからと・・・、鎖国を敷いたが、朝鮮とだけは国交を通じて朝鮮通信使の往来があったわけでしょ。朝鮮の使者を迎えて、それはそれは手厚く接待をしたわけでしょ。その中でたくさんのものを日本は学んでいるわけです。文化交流しているわけです。先人たちが犯したことをそこで反省して、朝鮮通信使を迎えてくれた。その中で特に雨森芳洲は、対馬で朝鮮通信使を応対する官吏というんでしょうか、この方が本当に素晴らしい応対をして外交なさった。見下げたりしないで、対等にわたりあって、朝鮮から来た使者を厚くもてなしたという記録があります。この朝鮮通信使についても学ぶことが多いですね。 次に現代の話ですけれども、山梨県の高根町ということろに戦前出生なさった方で、浅川巧という方がいらっしゃいます。お兄さんは浅川伯教といいます。兄弟で戦前に韓国に渡ったんですね、先に伯教さんが渡って、学校の先生をなさったんですね。美術の先生でした。 非常に芸術・美術について造詣のあった方です。その後を追って、弟の浅川巧という方が韓国へ渡りまして、この人は農林技師です。秋田の大館の営林署で4年ばかり勤めて韓国へ行って、この方が韓国でなさったことはどういうものかというと、朝鮮の要するに禿げ山ですね、岩山ですから。 それを日本の山林のようにふくよかな林を作ろうということで、林業の技術をもって緑化に尽くした。第2には、兄さんの造詣も受けたでしょうね、朝鮮の陶芸や民具に非常に造詣を持たれた。 韓国の人が忘れ去った、これは価値のないものだと思って、生活用品だからこんなものはたいしたことないと捨て去った物を浅川巧兄弟は、素晴らしい文化であると、民族の伝統的なもので誇るべきものだということで民具や陶芸を研究し発掘した。 要するに韓国の文化を知らしめ光を当てたということですね。白磁も青磁もそうです。この兄弟たちはくまなく釜跡を訪ね歩いて、韓国ですたれていった韓国の窯跡を調べ光を当てた。この兄弟がどういう生活したかというと、朝鮮の人たちにものすごく愛された生活をしたんですね。 どうして愛されたか。朝鮮の人たちとの生活を密着したんですね。朝鮮の人たちと親しく、目線を同じにして、見下げない、見上げない、肩を並べる。韓国の人たちの生活に溶け込んで、韓国の風習を身につけて、韓国語を使い親しくなさったんですね。 韓国の人たちは非常に恩を受けたというか、有り難い兄弟です。日本の敗戦後、日本人がみんな撤退する時に、韓国にある日本人のお墓をとりつぶしてしまった。だけれども、浅川巧の墓だけは唯一残っているんですよ、今でも。韓国の人たちは、自分たちの先祖である。 自分たちの同胞の墓であると。今も大事に守られています。交流というのは、その土地に根付いて生きる・・・、ノウハウをここから僕は学んだんです。浅川巧知ったのは、高校の時に秋田で本を読んだんです。どういう本か、教科書でした。岩波の本でした。 戦前は浅川巧のことが教科書に載ってたんですよ。今は教科書から外されてます。王仁(ワニ)博士の事も同じです。戦前は教科書に載ってましたから八木ヶ谷先生は知っておられると思います。戦後の皆さんは学んでません。どうしてでしょう。歴史的な認識ですよ。 日本が敗戦と同時に価値観が変わった。浅川巧の人間的なことを、教科書に書いたのは安倍能成ですね、昭和天皇の家庭教師でした。後に学習院院長にもなりましたね。その中に書かれたことで一番大事なことは、「人間の価値」という題名だったんです。「人間の価値」について書いてあるんですね。 その当時浅川巧の生き方が、誉れ高き人間の鑑だと、思ったんじゃないでしょうか。私は浅川巧について好きになった理由は、当時日本人は、朝鮮の国へ行って朝鮮の人と目線を同じにしてつきあうということを、なかなかしなかったですよ。 彼はいつも弱者というか、朝鮮の立場というか同じの視点で考えて発言をしたし、生きたというその姿勢は誰にでも出来ることではない。そうであったから朝鮮の人は愛さないわけにはいきませんよ。お墓を守らないわけにはいかないと思いますよ。 それで私は考えたんです。日本と韓国・朝鮮がどういう政治情勢になるか、どういう運命になるか・・・、今まで翻弄されたけれども、これからもどう翻弄されるかわからない。 でも日本で生まれた以上は、日本の国で日本人に愛されて、日本を愛して、日本に貢献をする生き方をしようと、浅川巧から学びました。どんなに差別を受けてどれだけいじめられても、日本を愛する、日本人と一緒に力を合わせて、日本の地域社会を良くしていこうと。 浅川巧から学んだのはそういうことでした。韓国の文化を認めながら、日本と韓国の魂というものをきちっと結びつけ交流をなさった方ですよ。私はそういう先人たちの行為、心というものを忘れないで、生かして、生きたいと今思ってるんです。 Hにつづく |