◇第5回2004光州ビエンナーレのテーマ「一塵一滴」に期待する◇

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今秋開かれる2004光州ビエンナーレは第5回目の開催となる。
(会期9月10日から11月13日)
お馴染みの中外公園をメイン会場とし今年5月に開通した光州地下鉄と駅、そして新市街地にある5.18自由公園において展示がなされる。
光州ビエンナーレは毎回、主題が大きな意味を持つが、理論的学術的で、一言では説明がつかないのは学習が必要であるからだ。今回は「一塵一滴=一粒の塵、一滴の水」と定義された。「東洋的思惟の談論」を案内する一つの「表象」として設定されたという。「気と滅」「生成と消滅」の交差現象と循環過程を含縮する。「文化生態学的な提案」と「観客が主体による文化生産的参加」を促す転機を試みるという野心的なものであるが、この提案も難解だとは思う。
今、世界では200以上のビエンナーレやトリエンナーレが開催されているが、どこも競争が激しい。内容が似たり寄ったりで、流行を追った寄せ集めのアーティストのデモンストレーションといった批判がある。一般市民には現代美術がどのようなものなのかが理解しがたいのだと思う。そして飽きられ始めているとの批判も挙がっている。
光州ビエンナーレは、そのような難しい問題点があるからこそ開催する意味があるという。光州の声は何か、片寄ったもの、似通ったものを警戒し、打破する前向きな精神である。芸術の生産者と芸術の消費者である観客市民側には明らかな距離がある。「9歩近づくように努力しますから、どうか1歩ずつ近寄って下さい。観客市民側の部屋を用意しますから、その部屋にどうぞ入って来て下さい。そして議論をしましょう。」と呼びかける、芸術生産者のビエンナーレ側。異質の出会いと、宿命の出会いの中で交流し協力しながら観客が作るビエンナーレを創世しようという野心である。言うならば大衆文化を収容する主義でいこうということである。私見ではあるが、楽しくなければビエンナーレではない。祭りとしての要素が必須であり、日常生活の中に密着した美術世界があり、芸術的なる豊かな人生の諭しと標を求めるのは欲張りではないと思うが。
今回の芸術監督・李龍雨氏は大衆文化の研究家で第1回の監督をも務め、光州ビエンナーレの基礎を作られた方である。どのようにしても難しい、やってみなければわからないビエンナーレを良く理解している監督であるから、その疑問から率直に出発したのである。結果がどう出るか、新しい視点で世界的な野心を掛けた問題を提起したのである。さて、今回はどのような答えが出るか、その答えに期待したい。光州ビエンナーレの賢く良き観客になるために我々も初心に帰って共に学習し、楽しめる光州ビエンナーレを盛り立てようではないか。
また光州市立美術館に於いては、光州ビエンナーレを記念して河正雄コレクション・没後22周年「文承根追悼展」(会期9月9日から12月30日)を開催する。34歳で早逝した在日二世作家の画業を回顧する。彼はコンテンポラリーアートの先駆者で、日本のモノ派と韓国のモノクローム派の源流にあった才気ある作家であった。この追悼展が日本と韓国の現代美術史の中で新たに見直され、再評価を受ける転機となることだろう。
一筋の光を残して早世した彼のメッセージを多くの観客が受け止める展覧会になることを期待する。

(東洋経済日報 2004.8.6)

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