◇光州ビエンナーレ◇

ホームへ リンクアイコン光州ビエンナーレ

境界を越えて

95.ビエンナーレ

光州ビエンナーレが閉幕した。光復五十年を締めくくるに相応しい国際美術イベントであった。
その回帰をあと数日残す十一月十一日から十七日まで私はNHKスタッフらと共に光州に滞在し、「日曜美術館」撮影のため立ち会った。今月三日「光州ビエンナーレリポート」として40分間放送された映像を見て感慨深いものがあった。私が見て感じた光州ビエンナーレがその映像の中に収められ記録されていたからだ。在日同胞はもちろんのこと、日本国民にリポートできたことは私の喜びであり、父母の故郷・光州を誇りとするものである。今年は元旦から光州ビエンナーレで明けたといっても過言ではない。「“芸術の都市”光州に世界的規模の国際ビエンナーレが創立」との報道を見たことが始まりであった。

 私は報道を見てすぐに光州に飛んで市長に会った。市長の話では昨年の九月中旬、この計画が発案されて、中央庁と協議後、十二月六日に設立準備委員会が開かれ、十三日、光州ビエンナーレ組織委員会創立総会で決定されたばかりであって、何ら具体的な概要は決まっていないとのことだった。私は9月に本当に開催されるのだろうかと面食らってしまった。

 三月、ソウルで内外記者会見が開かれ、姜雲太・光州市長が公式に発表したことで、光州ビエンナーレの全容が見えた。

「光州ビエンナーレの主題は『境界を越えて』としたのは政治・宗教・理念を超えてきた人類が一つになろうという意味からなのです。過去の目に見えない対立と葛藤を芸術を通して解いていこうという、世界の人々の切実な望みを託しているのです。光州ビエンナーレは光州の民主精神と芸術的伝統を基盤として健康な芸術精神を尊重し、地球村時代、世界化の一環として東西洋平等な歴史創造と二十一世紀アジア文化の能動的な発芽のためにその責任を果たそうと思います。光州ビエンナーレは世界の芸術家たちが純粋な価値創造の新たなる芸術秩序創立のために互いに心の壁を取り除き、手を結び合う『文化芸術オリンピック』であります。二十一世紀を開く入り口で、光州ビエンナーレ文化の優秀性を体系的に発展させ、光州を世界の芸郷として維持させ、世界の美術の水準をより高めようという意味から、光州ビエンナーレを創立することとなりました。」西洋化より世界化へ、画一性より多様な民族文化を尊重する姿勢が明確に示された。
そのユニークな発想は哲学的で野心に満ちている。光州という土地の文化的凝集力であり
『アジアの自覚』という最適の地に遜色ない英知と先見を世界に発信したのである。

 美術は民族や国家を超えた普遍性を持ちうるものであるが、ヴェネチア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレにおい国と民族の特殊性やナショナリズムがせめぎ合う政治の場を感じる風潮が最近ある。低調・停滞の感覚、対立や矛盾が絡み合う迷路を抜け出せないでいるのを見るに付け、同じような道に迷い込んでしまうのではないかという一抹の不安と危惧を正直、感じた。

 発案・決定・構成され、具体的なビエンナーレ増が策定されるまでの火急なる事。
そこへ、六月には光復初の民選光州市長選挙があった。当選された宋彦鍾市長から、戸惑いを隠さず、世界都市博覧会を返上した青島・東京都知事に見習ってビエンナーレ返上論まで飛び出すことがあった。初の経験である官主導の体制が本腰を上げるまでには語れぬほどの海の苦しみがあったのである。水を差すのではない。
まさしく「多事多難を乗り越えて」がもう一つの光州ビエンナーレのスローガンでもあるのだ。

 戸惑いと試行錯誤、初体験の国際イベントにかける舞台裏は、すべからく韓国式行動、思考方式でかしましいものであった。それに上乗せするかのように、光州が主体となっている国内の事情は、韓国・官政財界上げての前代未聞の不名誉な、前大統領収監事件に発展したことは驚きを通り越して、心痛めるものだった。重要なテーマ「境界を越えて」ではあるが、韓国が抱える、または光州が抱えた今世紀の数々の受難を救世する意味深長なテーマで、この事柄を見事に暗示していたと捉えるのはうがった見方であろうか。今、我々が克服しなければならない民族的宿命ともいえるテーマのように思われた。在日同胞社会においても心しなければならないことであろうと思う。

 私は在日同胞として祝祭に寄与すべくイベントを企画した。私の故郷・秋田県田沢湖町の民俗歌舞団・わらび座を野外講演場で紹介した。光復後初めての日本の民族公演は、韓国人の熱い拍手で迎えられ、芸能のルーツを確認しあった。また赤穂在住の在日二世・禹嶋連氏を代表とする日本人らの茶道人と、光州市三愛茶会の人々との韓日親善交流会を開いた。茶道を通して茶文化のルーツは一つであり、茶文化の近さは両国が一衣帯水であることを肌で感じさせた。これもビエンナーレである。これら全てが韓日の市民同士が自然な形で友好親善を結び合うのが光州ビエンナーレの理想であると評価を受けた。

 開会式の時、宋彦鍾市長は「美術、芸術は人を作り、国を造る」と述べた。アンドレ・マルローは「国家は芸術に奉仕せよ」と言った。この精神、この認識こそが世界化・一流化をうたう韓国の、文化国としての未来を約束し、光州ビエンナーレを開く大きな意味がここにあったのではないかと思う。

(統一日報 1995.12.8)

地球の余白

 東アジアを代表する国際現代美術展、第二回’97光州ビエンナーレ(会期九月一日〜十一月二七日)が開かれた。一昨年創設された光州ビエンナーレは百六十四万人もの観客が押し寄せ、世界に光州の存在を知らしめた。光州は父母の故郷、私の第二の故郷であり、一九八〇年に起こった光州事件の痛ましい記憶、痛恨の傷の癒えない愛郷である。現在は、韓国第五の地方都市、人口百三十万人を有し躍進めざましい民主の気風と芸術文化の花咲く芸郷として良く知られている。

 第一回のテーマは「境界を越えて」。光州の歴史と風土、そして芸郷としての魅力を最大限に発揮し世の人々に共感と感動を与えた。二十一世紀の未来に発せられた光州ビエンナーレのメッセージは英知と先見があり、示唆に富んでいる。二十世紀の混沌、対立と分裂、紛争と破壊からの教訓。世界は一つ、地球家族の理想を具現しようとする人間回帰、人類愛の哲学的試みなのである。

 私は組織委員の一人として、「在日」をテーマに寄与すべく光州ビエンナーレに参画した。広報のための記者会見設定。観光会社への観覧客の誘致とPR。フェスティバルには戦後初めての日本の民族歌舞団、秋田の「わらび座」公演を実現。そして市民レベルでのお茶会を開き韓日親善交流をした。会期末になってNHK「日曜美術館」の取材が決まり、そのコーディネート役を仰せつかった。NHKの四十分ものレポート「日曜美術館」放映による反響と成果で、今までの労苦が報われ、疲れが一度に吹き飛んだようだった。その時、祖国の人々と喜びを分かち合った感激は今も冷めない。

 第一回のテーマも意味深であったが、今回の第二回’97光州ビエンナーレのテーマは「地球の余白」となった。世界三十九カ国百十七人八団体のアーティストが参加する。メイン展示は陰陽五行を絡めた「速度・水」「空間・火」「混性・木」「権力・金」「生成・土」の小テーマで展開する。そして五つの特別展と七つの記念展・後援展で構成され前回を凌ぐ展示規模である。
 テーマ「地球の余白」について「現代の危機を乗り越え、多様に生成・変化する力が生まれるであろう表現の接点と隙間のようなもの」と難解極まる説明をされた。「速度・水」のコミッショナー、スイスのハロルド・ゼェマンは報道陣、美術会から繰り返されるテーマについての質問にうんざり顔であった。

「光州ビエンナーレにテーマはいらない。単に『光州ビエンナーレ』と呼ぶだけで充分である。そして作品一点一点についてあれこれ評価するのではなくビエンナーレ全体を見て評してほしい。」とハロルド・ゼェマンは単純明解な答えで切り返した。各セクションの展示企画力はディスプレイや、作品の質と水準において評論家の一致した高い評価を受けている。

 記念展の一つに、祈りと求道の在日作家「全和凰展」が光州市立美術館の河正雄コレクション記念室で開かれた。一九九三年に在日同胞作家六人の作品二一二点を光州市立美術館に私が寄贈したことから実現したものだ。それらは在日の貴重な記録であり、歴史であり、文化遺産である。全和凰の芸術世界を国際美術会に紹介できることは、在日に生きる誇りであり名誉である。

 今回も私のテーマは「在日」。成功の鍵は広報が一番大事な務めであると考え、組織委員会代表団や光州市長を迎えての記者会見を東京・大阪で三回開き、記者団を光州にも案内した。ツアーを組んだ五〇余名もの日本からの参観団は、前夜祭、開会式に参席。光州事件の犠牲者が眠る5・18国立墓地参拝、松広寺や日本に千文字と論語を伝えた王仁博士を祭る王仁廟を観光した。私の故郷秋田県田沢湖町や十文字町の方々も多数参加し祖国の文化芸術と歴史に触れ、理解と共感を深くした。

 フェスティバルは「琉球民族歌舞団」を紹介する。公演日は十一月十八日〜二十日。那覇で見た復帰二十五周年の記念講演の優雅さと力強さが、私の心を動かしたからだ。歴史的にも韓国と琉球王国は一衣帯水の関係があった。韓国の人々が、どの様な感慨を抱かれるのか、国際理解と親善に寄与するものと期待している。

 NHK「日曜美術館」は残暑の中、十二日間、二次に渡って取材した。今回は五十分のプログラムで’97光州ビエンナーレの全容を紹介する。十月十二日「現代美術・アジアからのメッセージ・光州ビエンナーレ’97」の放映が楽しみで待ち遠しい。

 「在日」が存在をかけて寄与できる’97光州ビエンナーレは熱く燃え、今、世界が注目している。組織委員の一人として、ぜひ成功させ光州を世界に誇る芸郷にしたいと思っている。日本からの参観を真心を込めて光州市民は温かく迎えることであろう。

(セヌリ・ネットワークVol.3 一九九七年Oct&Nov)

1997光州ビエンナーレが閉幕して


テーマ「地球の余白」第二回光州ビエンナーレが閉幕した。振り返って総括してみると、結果はまあ成功ということにはなったようだが、第一回とさほど変わらない感慨を抱いた。率直に語ると大部分の観客と美術界や言論人たちと主催者側にギャップが生じているからだ。一概に白黒をつけることではないが、全身的意味と客観的視点で冷静に受け止めることは大事なことだ。

 成功としてみる理由は、@国際的作家参加による展示の質的な向上と企画力、洗練された演出とそのテーマ性A観覧入場客八十万人突破による収益確保B現代美術を広いジャンルでまとめ、今年最も重要な展示であるという世界美術言論界の評価−などである。

 ドイツなど四カ国からは光州ビエンナーレの移動展などのオーダーが来ていることからも展望が出てきたようだ。大統領選挙を控え、企業の倒産整理やIMF通貨基金救済金融支援要請、経済沈滞と混乱の最中、悪条件を乗り越えて唯一明るい話題を提供した国際美術展であったとは思う。

 しかし、その一方で辛い評があることも事実である。第一回の時にも指摘があったが、組織運営が公務員中心であるための限界論。専門性とノウハウの蓄積が脆弱で、世界の新美術の潮流と問題定義の創出が期待できない。時間と尽力の浪費と試行錯誤は薄氷を踏むようで枯死寸前。我々らしさ(光州・韓国・アジア)のカラーを出せず、今ひとつ正体不明。展示企画力のアル先鋭化された専門家養成が急務で、思い切った方向転換をせねばならないという意見にも説得力がある。

 内容そのものがヨーロッパのコピー版であり、コミッショナー制度も考慮しなければならない。一般大衆の観覧客が異口同音に語る「展示物の持つ意味が、さっぱり理解できない」という感想には閉口するが、それも真で無理もなかろう。財団基金も百五十七億ウォンとなり目標二百億ウォン確保も九八年上半期には達成される見通しで継続的開催の基盤は出来た。ともあれ「誰のための、何のための」西欧と違うアジアの特性を生かした我々らしさのビエンナーレは国内は無論のこと、国際的にも関心を呼び注目されてきたことは喜ばしいことではないか。

 私は昨年十月、組織委員の委嘱を受けてから閉会まで光州ビエンナーレ成功に向け寄与すべく日々を明け暮れた。記念展の一つ、光州市立美術館・河正雄記念室で開いた在日元老作家「全和凰」の回顧展は好評を得た。求道と、その祈りの作品は国内外に感動と感銘を与え、意義ある展示となった。組織委の要請で開いた日本での記者会見、晩餐会は三回を数え、記者団を光州に案内もした。十月十二日に放映されたNHK新日曜美術館「韓国‘97光州ビエンナーレ・地球の余白〜現代アートのメッセージ」の撮影は、十二日間にも及び第一回に続きコーディネイト役を果たした。広報活動が功を奏し、日本からの観覧客が飛躍的に伸びたことで、広報の重要性が認められた。日本からの観覧客誘致では文芸協主催ツアーを組んだ。前夜祭と開会式に出席。そして、史蹟観光で歴史を学び、価値観を共有した。

 閉会間近な十一月十八日から二十日間には、前回の秋田県「わらび座」に続いて、沖縄の「琉球民族舞踊団」を紹介。初回は時雨模様の講演にもかかわらず、観客は大きな拍手で歓迎した。常夏の沖縄の舞台衣装、素足での公演は身に応えたかと思いきや、「私たちは熱い想いと南国の風を運んできたのです。逆に光州の皆さんの熱い声援に力を与えられました。」と打ち上げの席で述べられた。その夜は公演の成功を祝って三線(さんしん)の伴奏で安里屋ユンタとカチャーシの沖縄の舞で喜びを分かち合った。

 今回も私は「在日」をテーマに光州ビエンナーレに参画したが、残念に思うことは日本からのコミッショナーの参加がないことと展示物や作家の選定があまりにも少ないことである。主催者は韓日友好親善と文化交流のためにも日本の美術界とも協調し、共有の祭典となるようはぐくみ、力を寄せる努力をしてほしいと思う。


(民団新聞1997年12月10日)

「人+間」・二〇〇〇光州ビエンナーレ

いよいよミレニアムを記念しての第三回二〇〇〇光州ビエンナーレが開催される。美術ファンのみならず光州に思いを寄せる多くの人々が心待ちにしているオープンである。ましてや五・一八民主抗争の二〇周年を記念することはなお意義深い。

 思えば「“芸術の都市”光州に世界的規模の国際ビエンナーレが創立」との新聞報道を見たのは、光復五十周年を迎える意義深い年の元旦のことであった。私はすぐさま姜雲太市長を訪問し、光州ビエンナーレの意義と計画、そしてビジョンを聞いた。その構想の遠大さに圧倒され熱い血が騒ぎだし、嬉しさを抑えることが出来なかった。しかしその時は計画発表だけでテーマ、宣誓文もなく、組織すらも具体化されておらずその唐突さに面食らってしまった。そして秋の開催計画の早急さを訝ったものだ。

 「政治、宗教、理念を越えて人類が一つになろうという意味、過去の目に見えない対立と葛藤を芸術を通じて解いていこうという世界の人々の切実な望みを託して、光州ビエンナーレの主題を“境界を越えて”とする」とビジョンが発表されたのは1995年3月末のことであった。

 光州ビエンナーレは光州の民主精神と芸術的伝統を基盤として、健全な芸術精神を尊重し、地球村時代、世界化の一環として、東西洋平等な歴史創造と二十一世紀に向けてアジア文化の能動的な発芽のために、その責任を果たそうとの西洋文化より世界化へ、画一性よりも多彩な民族文化を尊重する姿勢が明確に示されたことで指標は定まったのである。我が民族性(?)の“ケンチャナヨ(大丈夫だよ)”精神と“徹夜しても朝まで仕上げれば良いのだ”精神はいかんなく発揮された。私の目にはそれらが急ごしらえで、つじつま合わせとしか映らなかったのは偏見かつ無理解というべきなのだろうか。結果論ではあるが万博のような雰囲気で大成功ということではあったが、文化戦略としての思慮と考察、研究と洞察が準備不足のため今ひとつ足りなかったことは否めない。運営に関してもトラブルが多く試行錯誤の連続であったから.....。

 九七年に開かれた第二回光州ビエンナーレのテーマは「地球の余白」。アジアの美術の国際的地位を高め、美術の大衆化に寄与する。様々な抑圧に悩まされ続けた人々が、その悲しみを昇華するためにアジアの美術における国際的地位を高め、芸術によって国と国との余白を埋めようとする意図が感じられた。第一回の反省から、量から質を目指したのである。だが「弁証法にいう正・反・合は批判より作る方が難しい。」と姜連均執行委員長が吐露したように主催者側の舞台裏は騒がしかった。

 さて第三回光州ビエンナーレであるが三年もの準備期間がありながら我々に届く情報や見聞の範疇に入るのは、組織委員会の構成運営権に関する内部的な葛藤である。光州ビエンナーレの精神と哲学、そしてビジョンは置き忘れられたかのように内部のゴタゴタにそのエネルギーの大半を浪費していったと見るのは厳しい見方であろうか。私が言えることは「初心忘れるべからず」ということである。今こそ光州ビエンナーレ創立時の志しを思い起こしさらなる高みへと雄飛するべきであろう。

 世界人が注目している「人権」というテーマを真っ向から美術で表現する「人+間」が光州ビエンナーレの主題である。ミレニアムを記念する国際的向上への願ってもない好機である。これにより光州ビエンナーレは世界に定着することを私は疑わない。

 光州ビエンナーレは人間と社会、性、権力、環境など多様な人間という根幹に文化的ビジョンを提示する意図があり、光州ビエンナーレの主流であるアジアに向けた視点が濃厚となった。アジアと世界を結び文化の架け橋として光州ビエンナーレが寄与しようという姿が具体的な形なってきた。特に私は「日本美術界との密接、親愛なる交流を」と在日としての立場から強く主張してきた。本企画展「アジアセクション」による新谷コミッショナー、「芸術と人権セクション」による針生一郎キュレイターの起用はその出発点である。併せて開かれる光州市立美術館主催による河正雄コレクション「在日の人権展」は、在日という存在と意味を問う、日本と韓国で初めての企画展示となる。これは在日の人権を考える意味でも歴史的な催しとなるであろう。韓国と日本との狭間で生きる誇り高き在日との新たなる絆と友邦関係を築く展覧会でもある。

 私が第一回から光州ビエンナーレに関与、寄与してきた大きな理由は「生きる場所」の全てでもある日本との友好親善を促進し、相互理解と交流を活発にする一念からである。人間らしく生き人権と人格を認め合うためには、韓日が過去の忌まわしい歴史を文化的交流することを契機とし、共に手を取って乗り越えてこそ在日という存在に福音がもたらされるのだという信念からである。

 四月三日と四日、野外公演場で日本三大祭、無形文化財「秩父屋台ばやし」公演が開かれる。相手を知ることが自分を知ることなのだという契機になってくれると確信している。光州ビエンナーレは二一世紀に向けて希望と展望を与える試みで、その成果を思うと心楽しいばかりである。

六月七日、第三回二〇〇〇光州ビエンナーレが閉幕

今回もやり終えて’ヤレヤレ’というのが正直な感想である。回を重ねる毎に質を問う声が多くなるのは目が肥えてきた証拠であり、国際的な評価を意識するほどに成長したと言っても過言ではない。が、運営にあたり相も変わらぬ組織構造(特に事務的なことなど)問題は根深く、その摩擦音は海を渡ってまで聞こえてきた。内部的な問題である人事問題などのトバッチリを外部に及ばすのは非常にいただけない。ビエンナーレのイメージダウンを促す事柄が余りにも多く気が重かった。

 光州ビエンナーレは光州という地方、韓国という国だけの祭典ではないことを今一度、銘記せねばならない。会期中光州市立美術館主催で「在日と人権展・宋英玉と曹良奎、そして在日の作家達」が開かれた。光州市立美術館に寄贈した河正雄コレクションを中心に在日一世、二世、三世作家二三名、百二十点の作品と数十点の資料を展示した。

 在日の美術は韓日美術界では疎外され、埋もれていた。その存在すらも認められることが少なかった点を考えると新たに見直す場所を提供したこととなるだろう。在日の存在と人権の問題に世界の関心が集まり、鮮明に問題点を浮かび上がらせ注目された。普遍の問題意識を植えたことに意義があったと思う。

 「省察促し、新たな恵みをもたらす可能性を秘めている。」「現代社会に問題提起する視点を蔵し、ビエンナーレ全体の中で一際異彩を放っている。」「在日美術作家の戦後の絵画群から、差別や苦難とともに、それを生んだ日本と朝鮮半島の歴史が胸をえぐるように迫ってきた。得異な民族的アイデンティティーを主題にした意義のある重い展覧会。」「我々、本国の韓国人が在日のみならず世界六百万人の在外同胞の存在と人権について今まで何をしたのか、これから何をせねばならないのか省察せねばならない。」という声は讃辞とは受け取ることが出来ないほど切実な意味がある。そして「在日の人権展」を改めて韓日で巡回展覧会を開いてほしいとの要望があったことを付け加えておきたい。

 2002年は韓日共催のワールドカップサッカー大会。その会期にあわせて第四回光州ビエンナーレが開かれる。尚一層の韓日友好親善を祈念して企画展を私は早くも準備している。そして光州ビエンナーレがアジアを代表する国際美術展として発展するよう心から祈っている。

東洋経済日報(2000.3.24及び2000.7.7)

省察と飛躍

アジア最大規模の現代芸術の祭典、第4回2002光州ビエンナーレが韓国光州広域市で開催されている。

 プロジェクト・1のテーマは慌ただしい現代社会の流れの中で混沌と不条理、矛盾を省察する「止まれ」である。一時停止(単純な停止でなく)で過去を「振り返り」新たなるスタート、跳躍のために休息、充電し思索を呼び掛ける「止まれ」である。光州ビエンナーレは「境界を越えて」「地球の余白」「人+間」というテーマで回を重ねてきたが、この度は光州ビエンナーレ自体をも省察し跳躍しようという意志が込められている。芸術監督、成完慶氏と各プロジェクトのキュレーターが巧みに計算した好企画で説得力のある展示となった。

 プロジェクト・2は「韓国人の離散」がテーマである。在外に居住する韓国人は600万人にもなる。分断と韓国の近代史の断面と結びつけ、多様で混成的な営みの中で民族の同一性とそれらの文化を見つめ直してみようというものである。在日の作家(蔡峻、盧興錫、朴一南、金英淑、金誠民、尹煕倉)6名が参加されているコーナーでは身近なものを感じ頼もしくなる。特に蔡峻の1997年作「故郷を捨てて」には在日1世の苦節の想いが滲んで共感を呼ぶ。

 プロジェクト・3は「執行猶予」。1980年に起こった光州民主抗争運動(光州事件)を軍隊が鎮圧、その憲兵隊兵舎を保存している5・18自由公園が会場。旧尚武台軍事法廷や監獄、食堂、浴室など寒々とし生々しい歴史の現場は韓国民主主義について若い世代のための歴史的な想像力を喚起し余りある展示である。私はその展示場で凍り硬くなった心と体を元に戻すために長い時間がかかった。その刺激的な現場で「止まれ」の明確なる主題の意図を見た。

 プロジェクト・4は市内の旧京釜線南光州駅の鉄道廃線跡地が会場である。アートと都市の新しい出会いがそこにはあった。光州の未来にアートの介入と参加を能動的な姿勢で促している。全体的に言えることだがもう一つのテーマは「市民の中に入ろう」である。市民が積極的に参加し共有する。市民参加型の「光州ビエンナーレ」を創造しようとしていることだ。

 また光州市立美術館では記念特別展として「韓日現代美術50年の礎・郭仁植の世界―河正雄コレクションを中心として」が開かれている。韓日で現代美術史に残る活躍をした郭仁植の業績を回顧する展示は美術史上、これが初めてである。韓日間の美術界に新鮮なる記憶を刻み込んだ意味深い展示である。

 前回はアジア中心の展示がなされ日本作家の参加も多かったが今回は少ないように思えることが私としては物足りない。光州ビエンナーレの歩みは未だ混沌とし試行錯誤しながら明確なる道筋が見えてこないという批評もある。

 「難解で独りよがりの作品は面白くない。どこかの展示会で見たような作品はもう見飽きた。見て楽しい、いうなれば単純明快な美しさに感動するビエンナーレが見たいものだ。」私の尊敬する元老彫刻家はそう感想を述べた。しかし連日押し寄せる若者達はそれを頓着無く受け入れているようで今風のテクノロジーアートを楽しみ好奇心を満たしている。世代、世界観の違いなど多面的な事柄を考慮するに、評はなかなかに難しいようだ。

 しかし創設した際の初心である「政治、宗教、理念を超えて人類が一つになろう。東西洋平等の歴史創造とアジア文化の能動的な発芽のために美術の水準を高める世界的な美術展にしよう」という矜持、情熱と意気を胸に更なる前進を望みたい。我々もまた、世界の「光州ビエンナーレ」に育み定着するよう、共に歩み寄与していこうではないか。

(東洋経済日報・2002.5.10)

2004年第五回光州ビエンナーレ(2004.9.10〜11.13)
テーマ「一塵一滴・A Grain of Dust A Drop of Water」
会期 : 2004.9.10〜11.13(65日間)
会場 : 光州広域市中外公園文化芸術ベルト一円及び5.18自由公園、鉄道廃線敷地

光州ビエンナーレの情報はこちらへ
日本語のページではありません


ホームへ