◇在日について◇

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在日の人権展

 「イデオロギーによる争いの終結に伴う、新たなる国際秩序の形成によって、東南アジアは新たなる文化と、世界経済の中心として飛躍的に発展している。アジアは来るべき二十一世紀のために、新たなる文化の創出のために、能力を蓄えていかなねばならない。

 光復五十周年を迎えた意義深い年に始まった光州ビエンナーレは、世界に向かってこうメッセージを発したが、光州ビエンナーレを取り巻く環境は、政治的、経済的にも順風満帆なものとは義理にもいえない状況にある。光州ビエンナーレは、新たなる文化の創出のための能力を蓄える余裕もなく、内外の葛藤と激動の中にあったと言っても過言ではない。

 ミレニアムの春。いよいよ第三回二〇〇〇年光州ビエンナーレが開かれることになったことは大変喜ばしい。不確実で不透明な一九〇〇年代の暗いトンネルをくぐり抜け、果たして光明を見ることが出来るのだろうかと、懐疑半分、期待半分の心境でもある。第一回、第二回の時もそうだったように。

 私なりの光州ビエンナーレを構成し、寄与貢献の道を歩んではきたが、満たされないもどかしさを感じていたのもまた、事実のことである。それは私という人間がアウトサイダーであるということかもしれないが。

二〇〇〇年光州ビエンナーレ記念・光州市立美術館河正雄コレクション「在日の人権展―宋英玉ど良奎そして在日の作家たち」が、光州市立美術館主催にて、ビエンナーレ期間中に開催されることとなった。ビエンナーレの「人間性」が持つ意味、「人間の存在・人権に対する根本的な問いかけをする」というテーマに呼応して、大変意義深いことである。



1999年秋、光州市立美術館に於いて「祈りの美術展」が開催された。九三年と九九年に私が寄贈した六八三点を一同に展示したこの企画は、在日一世を始めとする在日作家たちが歩んできた苦難の歴史を記録し、証言するものである。それは二〇世紀へのレクイエムという意味も持っており、鎮魂と祈りの込められた濃い、ヒューマニズムに彩られた世界である。しかし残念ながら、韓国現代美術史においてこれらはすっかり抜け落ちており、さながら一九五〇年代の作品群は、ブラックホールに落ちたように埋もれてしまっていた。

 今回、多様な在日文化の一端に触れる機会を設けることとなったのだが、これは「在日の人権」という、戦後五〇年を浮き彫りにしていると言っても過言ではない。在日が日本で営々と生きて、戦ってきた生活の場は、祖国の分断で、祖国の事件や出来事が海峡を越えて、在日の身に降りかかる奇妙な運命共同体を形成することを余儀なくされた民たちの、韓日間の中での絶え間なき人権との闘いと尊厳の証であったのだ。

 この企画展示により、在日同胞の生きた歴史とその哀しみ、差別と圧迫への不屈の闘志を感じ、共感してもらえたのではないだろうか。一九〇〇年代末尾を飾った、この「祈りの美術展」の意義が、後世まで記憶に残れば幸いである。

2000年光州ビエンナーレ記念・光州市立美術館、河正雄コレクション「在日の人権展-宋英玉ど良奎そして在日の作家たち」が、光州市立美術館主催でビエンナーレ期間中に開催されることとなった。ビエンナーレのテーマ「人+間」が持つ意味、「人間の存在・人権に対する根本的な問いかけをする」というテーマに呼応して、大変意義深いことである。

 在日一世、宋英玉画伯が昨年急逝された。八二歳であった。作家として人権との闘いに生涯を費やし、芸術魂をもって我々に強くそれらを訴えかける。私は宋英玉を回顧する。゙良奎は宋英玉を慈父と慕った。そしてこの時期に゙良奎と共にスポットを当てることとなったのは時代の要請であるのだろうか。

 ゙良奎(一九二八〜)は晋州に生まれた。一九四七年、晋州師範学校を卒業後、釜山で国民学校の教師をしていたとき、社会運動に関わり、警察の弾圧、捜査から逃れて1947年日本へと密航してきた。゙良奎は「日本の戦後、特に朝鮮戦争以後の中に生きた一人の朝鮮人が、独占資本主義的社会体制の中に生きる、現代人としての対象認識を通して思想への模索を続けた課程であります。植民地化の朝鮮に生まれ、その支配からの脱出と同時に、新しい強暴な支配者の手元に墜ちていく、南の社会政治情勢下にあって、逃亡という方法を余儀なくされ、それ故に『つまづき、深い屈辱感に苛まれながら、新しい思想の論理を築こうと、渇望した時期であります。」という言葉を残して六一年、北送船に乗って北に渡った。「戦後美術の最も重要な一角が、殆ど彼一人によって支えられてきたのである。」と、針生一郎は送別の言葉で述べた。

 帰っても絵が描けるかどうかも分からないのに、祖国「北」に幸せを求め消息を断った悲運の画家である。日本で公開されている「密閉せる倉庫」「マンホール B 」の二点、光州市立美術館河正雄コレクション「三一番倉庫」と「殺されたニワトリ」の二点、計四点が二〇〇〇年になって初めて、光州の地で展覧されることは、なんと表現してよいものか。

 在日の歴史は、人権との闘いの証人であり、記録であり、人間の尊厳の美しい鏡ともいえる。二十三名の在日作家たちの百余点による「在日の人権展」が、光州ビエンナーレの未来を展望することは間違いないものと信じる。この成功を祈念する。

民団新聞(2000.2.16)


在日の存在と誇り

 芸郷光州は父母の故郷である。私は1981年、光州にて在日一世画家全和凰画業50年展を開催した。その時、光州の一盲障害者の訴えを聞いた事から、光州盲人福祉協会と会館の創立に関わった。そうして私と光州との縁は深いものとなっていった。

 1992年、地方では初めて、現代美術館として光州市立美術館が建立された。1993年、私は美術館を訪ねてみた。その時館長から「河さん、光州市立美術館は出帆したばかりなので収蔵作品が足りない。あなたのコレクションを寄贈して貰えないか。」と要請された。

 私は故郷である秋田県田沢湖畔に、戦前の強制連行犠牲者を慰霊する「祈りの美術館」を建立する目的で、20代から在日作家の作品を中心に、美術作品をコレクションしていた。その中から212点美術館の要請に応えて寄贈した。そして美術館内に河正雄コレクション記念室が出来ることとなった。私は更に1999年、471点を二次寄贈し、光州市立美術館を充実させた。光州市と韓国美術文化発展に寄与する大義のためである。

 その後、これらのコレクションを中心として、「光州の5月記憶展」「在日の人権展」「全和凰展」「郭仁植展」「宋英玉展」などを企画して在日一世作家を顕彰し紹介した。2001年からは「河正雄青年作家招待展」を開催した。毎年、将来性のある5人の青年作家を国内、在外を問わず選び、紹介し育成するためである。

 2002年、8月1日から10月20日までは戦前、ベルリンオリンピックのマラソン金メダル走者孫基禎と共に、植民地時代の苦しい時代を生きた我々朝鮮人の、自尊心を団結させてくれた「舞姫・崔承喜写真展」を開催した。崔承喜の芸術活動の足跡と、彼女が生きた時代から、我々の民族史を検証してみることは、若者達の未来のため、現在に生きる我々にとっても重要であるからだ。

 私はこれらの展覧会を企画し、国際美術展光州ビエンナーレに第1回から寄与してきた。在日の文化と存在を伝達し、在日の誇りと自尊心を高めることが出来たことを誇りに思っている。光州市立美術館河正雄コレクションは、未来に無限のメッセージを発し、多くの人々に愛される存在になることを私は強く望んでいる。


韓国と日本・二つの祖国を生きる

我が家の在日としての歴史は現在、孫の世代まで数えて4代、75年の時を刻んでいる。

1928年、我が父は16歳の時来日した。そして1939年東大阪市で私は生まれた。振り返れば私は父母と共に日本の植民地時代と第2次世界大戦(太平洋戦争)を体験し、終戦後も日本国民や同胞と等しく貧困と闘い在日を生きてきた。祖国解放の喜びも束の間、朝鮮戦争による南北分断は、朝鮮民族の不幸の象徴であり、その傷は未だに癒されず、悲願の統一は夢の中である。

在日の我々は国交回復までは韓日政府から疎外され差別と偏見の対象であった。著しく人権を無視され韓日の狭間の中で翻弄された民である。今、世の流れは急激に変わりつつある。現在開催されている日韓共催のワールドカップサッカー大会は熱狂の中で在日とも親しくなり、近くなり、理解しあえる為の絶好の好機を両国民に与えたと思う。

しかし日韓の兄弟は熱しやすく冷めやすい気質を何故か共通して持っているようだ。私は歴史認識からくる教科書や靖国参拝問題などで在日の我々が、また肩身の狭い思いをするのではないだろうかと一抹の危惧を抱えている。両国民にとっての千載一遇の好機が一過性の「友好親善のブーム」で終わってしまわないことを祈らずにはいられない。

日本には70万人の在日同胞が住んでいる。今や在日は5世代となり日本を我が故郷、祖国と思っているのだ。若い世代は祖国発展への寄与と日本社会への貢献など定住、定着志向を鮮明にし日本社会で尊敬され模範的市民となるよう努力している。韓日の友好親善に積極的に寄与し「共生・共栄」の精神で「懸け橋」としての役割を担う矜持を抱いているのだ。

私は「在日」の生き様をテーマに世の人を愛し、故郷を想い、父母を敬い、韓国と日本という二つの祖国に対する熱い想いと願いを本に込めて書いた。これが韓日国間、そして両国民と在日の理解への指標の一つの形となれば幸いである。

聖教新聞(2002.6.26)

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