◇手塚先生の想い◇
つい最近まで忘れ去られていた浅川巧の生涯を掘り起こし、その生きざまを地元山梨の人々に紹介した郷土史研究家、手塚洋一氏は『郷土史にかがやく人びと(第十九集)浅川巧』の「あとがき」で次のように述べている。「人のために一生を捧げて悔いのない無私の精神、人間がなすべきことの本質を理解し、そのために朝鮮の地で、文字通り一生懸命に生きた日本人、国や民族や宗教といった人間を区別する垣根を心のうちに築くことなく、人類の一員としての愛に目醒めて、朝鮮の人々のために己れを捧げた人、真の国際親善の実践者、この生き方こそ、今日の我々にとっての実に尊い指針である。」 朝鮮と日本を置き換えて読めば、そのまま韓国人趙在明・韓相培氏に当てはまるといえよう。偉大な人は、その感化力によって偉大な人を作るものだと思った。 浅川巧の生涯が、その生誕の地高根町の人々によって正統に評価され、その生きざまが顕彰されるようになったのは、そう古い話ではない。ある日、私は手塚洋一氏にお会いして、地域の人々と浅川巧の関係について率直にお尋ねした。 「手塚先生、私は二十年前と十年前の二回、高根町役場を訪ねて、町の記録や町史に浅川巧のことが記述されていないかと尋ねたことがありますが、まったくないという答えでした。その後ことあるごとに知り合いの町の人に聞いてみましたが、いずれも知らないといわれました。町の人たちが浅川巧のことを知るようになったのは、いつごろからのことでしょうか。」 「町民が知るようになったのは、数年前からのことで、私も同じです。前町長は、浅川巧が出た農林学校の後輩でしたが、知らなかったようです。」 「何故に、ポール・ラッシュは清里の偉人と顕彰されているのに、浅川巧は今まで忘れ去られていたのでしょうか。」 「私は、昭和十二、三年頃に『人間の価値』を岡山の中学校で習ったけれども、その時は気にも止めず忘れてしまったのです。昭和二十六年のこと。岡山から山梨県高根町に住むようになり、狭北高校に勤めました。当時、その学校に巧の義理の甥が同僚として勤めていました。残念なことではあるが、ついぞ巧の話を聞いたことはありませんでした。町の人も、親族も、話題にしなかったという程度の価値観でした。当時の日本の社会情勢がさせた認識。言うならば日本と朝鮮との関係にあったのでしょうね。」 「先生ご自身は、当時どういう教育をお受けになったのですか。」 「中学卒業まで岡山で育ちましたが、小学校の時クラスに一人朝鮮人の女生徒がいました。理由は今も良くわかりませんが、朝鮮人といってよくいじめました。なぜいじめたのか。私がこれから解決しなければならない大きな課題のひとつになりそうです。天皇が一番偉く、日本が世界で一番偉いんだと、神国だ神風の国だと教わったのです。偏見にみちた軍国主義教育のせいですね。植民地政策の下で、朝鮮は日本より劣っているという朝鮮蔑視の時代でしたからね。」 「ヨーロッパやアメリカは優れていて、アジアは劣っている、朝鮮は劣等下等民族だという思想は、現在も日本人の意識に生き残っているのではないですか。」 「思想家福沢諭吉の世界観は、脱亜入欧論であった。遅れたアジアからぬけ出て、ヨーロッパの仲間入りをすべし、要するにアジアや朝鮮に対する蔑視です。現在の日本人の朝鮮観・朝鮮人観は、この福沢諭吉以来の朝鮮観・朝鮮人観の形式に影響されているように思います。」 「なぜ、ここにきて五町田の皆さんや、日本の皆さんが浅川巧を知るようになり、墓参や顕彰するようになったのでしょうか。」 「日本人の、この地域の人々の意識の中には、あの人たち(巧や伯教)が五町田部落のためになにをしたというのか。道を作ったのか、橋を架けたのか。金でも寄付したというのか。家、屋敷を売り払って朝鮮のために仕事をしたあの人たちよりは、この地にはもっと偉い人たちが沢山いるのだという認識。位階勲等や社会的地位を重んずる意識風土であったが、バブルがはじけて以来、『人間の価値』が問い直され、見直される成熟した社会への志向が強まったからではないでしょうか。」 「浅川巧は、五町田、高根町、山梨県、日本が生んだ、世界に誇るべき普遍の『人間の価値』を私たちの心に残してくれた人間だ。高根町が誇るポール・ラッシュと同じ聖壇に上る人だと思うが、町では今後どうしようとされるのでしょうか。」 「高根町五町田を日本と韓国の友好親善の聖地としたい。出来れば、忘憂里と姉妹都市関係を結び、人の交流や相互の墓参りをしたい。特に青少年の交流を大事にすることが両国の未来への希望と展望につながり、浅川巧の志に応えることになるのではないだろうか。」 |