◇白磁の壺の碑を守った人◇

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忘憂の里は、秋の名残の香に紅葉を楽しみ、薬草などを採集する市民が遊ぶおだやかな公園墓地であった。カラリと晴れわたった秋の空の色も、西日に照り映える銀杏の葉の色も、昨日発った秋田駒ケ岳の風景と何ら変わりない色、日本・韓国の区別をつけがたい自然の営みは、私には国境も海峡もない風景、人の営みであった。
 高根町五町田は浅川巧の故郷。一〇月二五日、この町の一行が昨年に続いて浅川巧の墓参りをするということで、案内旁の墓参である。
 六〇万一千坪の墓域を誇るソウル特別市立忘憂里墓地は、市内五ヶ所の共同墓地の中でも歴史が古い。
一九三三年に開設され、七三年には満墓となり、現在三三、三三四基の墓が祀られている。

 墓地事務所を起点とし、北に北漢山国立公園の山脈を仰ぐ。その山裾に広がる巨大なソウル市街を見て、西に今朝降りた金浦空港方面から漢江が望めた。その流れはゆるやかに南から東に下っていく。
浅川巧の墓は、その東側のなだらかな斜面の、漢江の流れを望むところに位置する。眼下に広がる市街は京畿道九里市。一周五二〇〇メートルの散策コースにもなっている。よく管理され一帯の樹木が森を形成していた。
あまりに雄大な展望に見とれ、

「北漢山の先に鋭くそびえたつ山は何という山ですか。」とそばの市民にたずねた。

「峯火山といいます。むかし外勢がおし寄せてきた時、ソウル市をとりまく各山の峯に烽火をあげて知らせた有名な山です。北漢山には、日帝時代、独立愛国者たちを呪うためのくさびを打ち込んだ日帝の風水があります。」

「あなたは在日同胞というが、日本人のために仕事をする人なのか。」と快く思わない口ぶりに反日感情を感じた。

 忘憂里には、独立運動家が数多く埋葬されている。今は国立墓地に移葬された安昌浩・朴賛翊・趙鐘完等はあまりにも有名だ。張徳秀・韓龍雲・呉世昌・方定煥等の烈士が、今もこの地に眠っている。みな漢江を望む南側である。浅川巧の墓は、これら烈士の墓に囲まれるようにたっている。浅川巧が独立運動家たちと共に列せられているように思えてならなかった。
 一九三一年四月二日に、ソウル東大門区清涼里洞の自宅で亡くなった浅川巧は、里門里の韓国人墓地に葬られたが、都市計画の道路拡張のために現在地の忘憂里に改葬されたものである。墓前右手には、兄伯教の設計による李朝白磁の壷を模した白い花岡岩の墓碑がある。八角の台座には、「巧の墓」と刻まれている。左手には、一九六四年、韓国山林庁林業研究員職員一同によって建立された「浅川巧功徳の碑」がたっている。碑の中央には、「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中で生きた日本人、ここに韓国の土となる」と刻まれていた。墓地番号は、二〇三三六三と表示されている。

 中央の碑文を書いた趙在明前山林庁林業研究院長が、一通の書類のコピーを私に示した。ソウル特別市葬墓事務所長発行の葬墓施設使用許可証であった。一九九四年五月二日の日付である。使用者は「趙在明」、被葬者との関係欄には「親戚」と記載されていた。
 趙在明氏は、「戦後、日本人墓は管理者不在となり、無墳墓として片付けられたが、浅川巧の墓だけは我々が守ってきました。この許可証は、昨年になって初めて法的に認定されたものです。」と説明された。そして、「河さん、この方が六四年から今日までずっと浅川巧の墓守をしてきた方です。韓相培さんといいます。春秋の草むしり、墓参の案内、日に二度も立ち廻って管理している方です。」と紹介された。
韓さんは、一九三七年に清涼二洞で生まれた生粋の土地っ子、林業研究所の職員である。

「韓さん、三一年間墓守をしてきて、一つだけ辛かったことを話していただけませんか。」という問いに

「何もありませんでした。」と、はにかむようにうつむいた。

「解放後二度にわたって白磁の壷碑がなくなったと聞きましたが、どのようにして今の位置に現状回復されたのですか。」韓さんが重い口を開いた。

「一九六七年のことです。駐韓日本大使が明日午前墓参に見えると、午後電話がありました。いそいでお墓に行きましたら白磁壷碑がないのです。周辺の斜面を調べましたら一五〇メートルも下にころがっているではありませんか。翌日の早朝、人手を借りて、三、四時間かけて運び上げました。この時がいちばん大へんでした。」

 壷の碑がなくなったことは、戦前、日本統治時代にもあったという。風のいたずらか、大地の変動か、知るすべもないが、何の罪もない白磁の壷が、何度もころがり落ちるたびに、涙をのんで汗を流して、「浅川さん、ごめんなさい」といって墓守をしてきた韓国の人々のかくれた崇高な愛の行為を壷の重さが実証している。

「その時、どんな思いで元に戻しましたか。」

「私のチョサン(先祖)だと思って必死にやりました。今もその気持ちで墓守をしています。」

 実の息子でも、父母に孝養を尽くすことが困難な世知辛い世の中に、徳高い碑石を十基も建てるほどの心の寛大さ、韓国人の徳質として、私はこのことを誇りとしたい。      珀 紋

 新任の崔 休山林庁林業研究院院長は、高根町五町田の墓参団歓迎のことばで、「近いうちに韓日合同の追慕祭を執り行ないたい」と述べた。これはまさに、グッドアイディア、グッドタイミング。再び白磁壷碑が転がり落ちることのない日のために、両国の友好親善交流は必須のことと銘すべきであろう。

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