◇浅川兄弟生誕の地◇

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「人は生まれながらにして自由・平等である。(『世界人権宣言』より)

 人権モデル地区高根町」という立看板を高根町役場の入口で目にした。そこから一キロメートルほど隔たった所、甲川(かぶとかわ)を前にした公園入口に「史蹟、浅川伯教・巧兄弟生誕の地」の石碑が建っている。     実は甲川の向う岸、目と鼻の先が生誕の地であるが、人手に渡っているためにこの地に建てたものである。碑面には、次の碑文が刻まれている。    

      史蹟  碑 陰 記

    秋雨のもりのかなしき庵なれど

      空も我もの 海もわがもの    伯

 浅川伯教(一八八四ー一九六四年)・巧(一八九一ー一九三一)は、旧甲 村五町田、浅川如作・けいの子として生まれた。父方蕪庵六世小尾四友・母 方国学者千野真道の孫なり。父早生し、母と祖父等の慈愛に育まれ、長ずる や相前後して朝鮮に渡る。彼の地における兄弟の活動は人道主義的で一貫共 に朝鮮の美の研究に没頭す。民芸運動の先駆者としても人々に深い感銘を与えた。            伯教は、朝鮮陶磁器の調査研究に生涯を捧げる。就中、高麗・李朝期の研 究は今も燦然と輝き、優れた業績を朝鮮に残す。朝鮮陶磁の神様と称されて いる。巧は、人間愛の故をもって、彼の地の人から、朝鮮が好きで朝鮮の人を愛し、朝鮮の山と民芸に生涯を捧げた人として敬愛されている。

平成三年三月吉日建之          高根町

 史跡から数百メートルのところに浅川巧の墓碑があった。一九七七(昭和五二)年春彼岸に、浅川家親族一同によって建立されたものである。

浅川巧、文徳院天巧道智居禅士       糺 輯        昭和六年四月二日 行年四十一歳

 蕪庵六世四友翁の孫、祖父亡きあとの慈母一手の愛育により成人、朝鮮林 業試験場技師、半島緑化に尽痒、朝鮮美術工芸の研究にも没頭、遂に兄伯教 と協力して李王宮の輯敬宮に朝鮮民芸美術館創設、著書「朝鮮陶磁器名考」 「朝鮮の膳」など、また私費を投じ多数の朝鮮子弟を愛育、その人となりは 国定中等国語教科書の中の「人間の価値」と題する一文に尽き、全く知と愛 そのものである。一家をあげて民芸に捧ぐ。合掌

菩提寺 曹洞宗泉龍寺

 墓石には十字の印が刻まれ、日本流の戒名がつけられているが、お骨は入っていないのである。せめて親族が身近く呼び寄せたい心情が伝わってくる墓石である。先祖代々が寄りそっている墓域を見ると、自然の姿に見え心温まる思いがするが、なぜか悲しみも感じられるのはどうしたことか。

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