◇ポール・ラッシュとの出会い◇

伯仲へ ホームへ 次へ 戻る

二十年前のことである。私は一人清泉寮を訪ねた。玄関の出入りは自由であった。
応接室のあるホールに入った。マントルピースのソファーに小柄で小太りした白人がひとり物思いにふけっていた。聖職者の黒い立て襟の制服を身につけていた。頬や鼻が赤く染まってテカテカと輝いていた。私が入ってきたことに気付いたようだ。立ち上がって、「どうぞお掛けください」と声をかけてくれた。この人が、ポール・ラッシュであった。日本語はそれほど流暢ではなかったが、会話が進んだ。

「どうしてここへ。どこからおいでになりましたか。」

「マントルピースの上に掲げてある絵にひかれて入りました。見覚えのある絵だったものですから。」

「須田寿の『牛を売る人』の絵です。この寮の完成の時、寄贈を受けたものです。日本で初めてジャージ種をアメリカからもってきて、この清里で実験的に飼育したご縁で、牛のモチーフの絵が送られたのです。」

「私は、須田寿のザクロの絵がとても好きです。画集を持っていて身近に見ていたのがご縁になりました。」

「その画集を、一度見たいものですね。」

 絵がとりもつ縁で、二人きりで一時間ほど会話をかわしたろうか。会話というよりは、ほとんど私の一方的な絵の講釈であった。私は、私の画論、好きな画家などについて、熱弁を振るった。ポール・ラッシュは、私の絵の話についてはあまり興味がないようであったが、相槌を打ちながらニコニコして聞いていた。

 「ここまでくるのに大変なことが多かったでしょう。」と突然問いかけた私の言葉に、ポール・ラッシュの顔が瞬間曇った。潤んだその眼には、ゆがんだ私の顔が映っていた。熱血の眼であった。
「自分の理想とロマンとのギャップで苦しみました。地元の人々から理解が受けられなかったことで一番悩み苦しみました。今も悩み、実はそのことで一人で考え込んでいたところです。」親しみをこめたその言葉がしみじみと心にしみた。

 異郷の地で異邦人として奉仕をすることがたやすいこととは思わないが、この孤独、このわびしさは、なぜか私には共感として伝わり、一期一会の出会いを糧とする影響を受けた。
それから数年をへて、ポール・ラッシュは、清里の地に大きな光を残して、人々に惜しまれながら去っていった。須田寿の画集を見ないままで。

 今年一〇月一四・一五日に開かれた「ポール・ラッシュ祭ー明日への希望を信じ挑戦する人々をはげますためのカンティフェア(収穫祭)」は、すばらしい好天に恵まれた。久しぶりに清泉寮を訪れた私は、マントルピースの上に変わりなく掲げてある「牛を売る人」の前で、しばしポール・ラッシュとの思い出にひたりながら、世の無常をしみじみ味わった。

次へ 戻る