◇清里紀行◇

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忘れもせぬ一九六〇年五月五日のこと。ちょうど二〇歳の時である。汗ばむほどの初夏の新宿御苑で楽しんだ後、あてもなく新宿駅から中央線に乗った。小渕沢駅でSLを見つけた。急に乗りたくなってホームに降りた。そこから小梅線で小諸まで行く列車だという。
 急勾配を、シュッシュッポッポ、シュッシュッポッポとあえぐように山麓を進んで行く。後にした山塊、前に現れる山容、実にみごとな風格をそなえた三千メートル級の峰々に、私の胸は高鳴った。
 「清里」という駅に着いた。「清き里」、なんとロマンチックな駅名であろう。私は急いで列車から降りた。その時の空気のうまさは、今も忘れがたい。降りたとたん身を刺すような冷気に震えあがった。下界の暑さからは想像も出来ないような別世界である。そこは標高一二七五メートルの高原の駅。目の前に黒々とした山岳が迫っていた。八ケ岳であった。私は八ケ岳も南アルプスも知らず、何の目的も知識もなくただ汽車に乗って清里の地に降りたったのだ。 駅舎は朽ち果てたみすぼらしい小さな木造、降りたったのは私一人、何ともいえぬ寂寥感のただよう旅情をかみしめた。
 山の夕暮は早い。夕日に染まった八ケ岳のキリリとした凛々しさ、遠く南に富士山が望め、周囲の雄大な山岳美に息をのんだ。なぜか武者ぶるいをしたのだから、その時まちがいなく若さと青春があったのだ。駅の近くの旅館に泊まって、翌朝、駅前を散歩した。いやに「浅川」「あさかわ」という看板が目立つ。ここが山梨県の高根村であることがわかった。
 ちょっと待てよ、私の知っている「浅川巧」、もしかしたらここは浅川巧の故郷ではなかろうかと直感して、私の胸は躍った。私はこおどりするような気持ちで、「浅川巧のこと知りませんか」一軒々々尋ね歩いた。浅川巧が生まれ暮らした家があるかもしれないと思ったからだ。 だが、誰一人こたえてくれる人はいなかった。「さあ、そんな人のことは聞いたこともありません」というつれない返事がかえってくるばかりであった。 「浅川」の看板をかけた家の主人が浅川巧のことを知らないのだから、これは自分の方の記憶ちがい、土地ちがいなのだと早合点した。その時に深く思わなかったことが、これまで浅川巧との接点、糸口を見い出せなかった理由になる。