◇劇「浅川巧」の上演◇

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一九九六年二月二八日、平和を愛し、思いやりのある社会を創ろう」というテーマで、「高根生涯学習フェスティバル,96」が開かれた。そこで「高根中学校演劇部生徒が、浅川巧の生涯を劇化して上演します。もしご都合がつきましたらご覧いただきたいと思います」と手塚先生からご案内をいただいた。 昨年、高根中学校の校門の前で手塚先生に質問したことがある。要望したといってもいい。

 「地元の小中学生の教育のなかで、浅川巧のことを取り上げることは、大事なことではないでしょうか。彼等がどう語り、どう受け継いでいくかが問題です。」
 「教育現場での取り組みは今までなかったので、近いうちに中学生が発表する機会をつくりたいと思います。」と答えられたことが、このような形で実現したものだ。案内をいただいて、その取り組みのはやさ、熱意と努力に敬服した。
 当日は大雪。純白の銀世界は祝福の花が咲いたようで、絵のように美しかった。俳優の永島敏行くんと連れだって出席した会場には熱気があふれ、人々の表情は生き生きとしていた。
 「朝鮮の土になった日本人 浅川巧」の上演は、緊張感が張りつめ切ないものであった。
「朝鮮が好きで、朝鮮人を愛し、朝鮮の山と民芸に捧げた日本人、ここに朝鮮の土となる」とスクリーンに写し出され、アリランの歌が流れた。その時、体に電流がつきぬけた。浅川巧が生きて現われたように思われた。観客はすでにハンカチを目頭にあてていた。
 「チョウセン」「チョウセンジン」というセリフが、たった三十五分の上演時間の間に、どれほど行き交い語られたことだろう。かつて蔑視・差別の用語だったはずの「チョウセン」「チョウセンジン」という言葉。若い中学生が発するそのセリフの中には、一点の曇り偏見も感じられなかった。今朝の純白無垢の雪のように。なんて美しい響きの「チョウセン」「チョウセンジン」という日本語。ここは、過去の日本人社会でなく、新しい日本のユートピアではないだろうか。過去の歴史の記憶が走馬灯のように脳裏をかけめぐった。 チマ・チョゴリを着こなして演じる彼等、アリランを歌う彼等の表情には屈託がない。みんな私の兄弟、子供、同胞たちだ。もしかしたら長い間の被害者意識、その思い込みが強すぎたのではないだろうかと我を省みた。
 「巧さん。韓国の人々や故郷の五町田の人々みんなが、あなたを愛しておりますよ。巧さんが韓国の人々を愛したように。」私の心の中に生きつづける浅川巧。愛を受ける人よりも愛を与える人の喜び幸せを教えてくれた浅川巧のように生きてみたいとあらためて思った。

 公演がおわって、永島君が紹介された。
「私は、郷土の誇りである浅川巧の生涯を演じられた皆さんから感動を受けました。私も、朝鮮のこと、浅川巧のことをもっと勉強し、演劇を通して、その心を多くの人々に伝えたいと思います。」
中学生たちを前にして、真摯に語りかける永島君の姿が、あたかもそこに浅川巧が立っているように見えたのは、幻覚であったろうか。その時、いつの日にか彼が若い彼等とともに、日本と韓国の舞台で浅川巧の生涯を演じると言う夢とロマンが私の胸中に沸き立った。私は胸の高鳴りをおさえることができなかった。その日、浅川巧の郷土は、春節を祝い、喜びをわかちあっているように思えた。浅川巧が、雪とともに春を運んでくれたのだ。

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