◇白磁の人―浅川巧◇

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昨年の秋のことである。わらび座の茶谷君が、歴史の研究会の帰りということで我が家を訪れた。
「すばらしい本だよ。プレゼント。」と、一冊の本を手渡された。江宮隆之著『白磁の人』(河出書房新社刊)であった。表紙の帯に「朝鮮に愛された日本人」「朝鮮の、ことばを芸術をくらしをそして友を愛した人」とある。それは浅川巧の生涯を描いた小説であった。
 浅川巧は、明治二四(一八九一)年、山梨県北巨摩郡甲村(現、高根町)に生まれた。県立農林学校を卒業して、五年間秋田県大館の営林署で造林技師として務めた後、兄伯教と相前後して朝鮮に移り、農林技手として植林技術の普及に努めるかたわら、失われようとする朝鮮の美の発掘に献身した。日本の植民地支配下にあった朝鮮に生きて、朝鮮の人々から愛された希有の日本人である。
私はむさぼるように読み、こみあげてくる熱いものを抑えることが出来なかった。文中の次の一節がとくに心に沁みた。
 「植民地政策下の朝鮮で、民芸の中に朝鮮民族文化の美を見つけ出し、朝鮮の人々を愛し朝鮮の人々から愛された一人の日本人林業技手がいた。日本では浅川巧、という名前さえ知られることがなく、今もソウル郊外の共同墓地に眠る。その墓は韓国の人々によって守られ続けてきた。墓の傍らに建てられた碑文は、ハングルでこう記す。韓国が好きで、韓国を愛し、韓国の山と民芸に身を捧げた日本人、ここに韓国の土となれり≠ニ。」

 浅川巧との出会いは、偶然といおうか必然といおうか、どちらにしても深い縁で結ばれていたのだと、その時しみじみ思った。