◇光州ビエンナーレの意義(光州民主化運動の復権)◇

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一九八〇年五月一八日に起きた光州事件。一九九五年、十五年目の光復五〇年の節目の年に、再び韓国中を揺り動かす問題として大きくクローズアップされてきた。
 独裁政治を十八年間実施した朴正煕大統領が酒席で暗殺されたのは、一九七九年一〇月二六日のこと。そして同年一二月、粛軍クーデターを起こした戒厳司令部の全斗煥国軍保安司令官が実権を掌握した。軍部が政権を握るために、八〇年五月一七日、非常戒厳令を全国に拡大したことが発端となり、一八日、光州では大学生を中心とした非常戒厳の拡大に反対する抗議デモが強烈に発生したのである。戒厳軍は、こうした学生デモに対し苛酷に対処したため、鎮圧軍に対する市民軍が自然に形成され、二一日から二七日まで、光州は市民自治都市となった。
 政府戒厳軍は、これを「北」の命を受けて国家転覆を企図したものとして、二七日夜明け、戦車を先頭に市民軍を鎮圧し多数の犠牲者を出した。これが、光州事件(事態)である。未確定であるが、政府発表で、死亡一九三名・行方不明四七名・傷痍者二七一〇名。起訴者五〇五名が、五・一八関連の被害者状況であるが、巷間では死亡者二千名に及ぶともいわれている。
 混乱したその地獄、修羅の街の生々しい様子は、日本でもテレビ中継で報じられた。その凄惨な光景は、今も鮮烈な映像となって私の瞼から消えない。
 一九九〇年八月六日、光州民主化運動関連者保障に関する法律が制定されるまでは、光州民衆抗争が真正な民主主義実現のための市民蜂起であったことが歪曲・侮辱された。光州は、「抵抗の都市」という過激的印象で認識されていた。
 光州事件は、この年はじめて「五・一八光州民主化運動」と命名され、名誉を回復したのである。

 一九九三年二月、三二年ぶりに誕生した文民政府は、五・一八光州民主化運動の延長線上にあると宣言した。文民政府は、独裁体制の軍事政権と決別したのだ。光州民衆抗争の真相を客観的に究明し、全容を明らかにして五・一八の崇高なる精神を継承するため、「五月一七日のクーデタは、国民の名誉を失墜させ民族の自尊心を傷つけ、国民すべてに悲しみをもたらした」と、民族正気を正す五・一八特別法制定を指示したのである。「国民を愚弄し、遡及立法を禁止した憲法に違反する」と、特別法制定に反発する世論もあったが、国民を襲った軍部の司令塔・全斗煥元大統領、その配下であった魯泰愚前大統領が逮捕・起訴される急転回の「誤った過去の清算」は、国民の支持を受けている。成功したクーデターを処罰しようとする前代未聞の異常事態となったが、、韓国の民主化のためには、粛軍クーデターと光州事件の責任追及は避けられない道のりのようだ。光州事件については、これまでに名誉回復や補償などが行なわれてきたが、市民の怒りが解けないのは傷があまりにも深いからだ。しかし金泳三大統領は、「歴史を正しく立直す」と特別法制定を強調するが、韓国の政治風土は、歴代根深い背景があまりにも多すぎ正常ではない。国民一人一人が冷静に過去を振返って点検し、痛みをともに分かちあう必要があるようだ。二人の元大統領の末路の哀れさもさりなん、私自身まで哀れを催すのは如何ともしがたい。正しく生きること、人間らしく生きること、人間性そのものが最善の価値として位置づけられる民主の世の中になったと考えるのは楽観にすぎるであろうか。正義と自由、民主を守り、勝ちとるために流された聖血の尊さと、光州市民の忠義なる人類愛が普遍的評価に定まる希望を見るのは、私一人ではないだろう。光州ビエンナーレ開催の意義が、ここに集約、意図されていたと結論づけるのは早計であろうか。光州ビエンナーレのテーマ「境界を越えて」、実に意味深長であると直感したことは、こういう意味合いなのかと、あらためて世の無常をかみしめている

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