◇「光州五月精神展」をめぐって◇

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光州市立美術館で開かれた光州ビエンナーレ特別展のひとつ「光州五月精神展」では、光州事件をめぐっての意見の対立、そして見解と認識のズレが主催者側内部にあったようだ。それは、「光州五月(抗争)精神展」というタイトルが、英文では「五月一八日の記憶の中の光州展」として広く宣伝されたことに端的に示されている。「精神」と「記憶」では大きく意味が違ってくる。
 「光州五月精神展」は、当時の現場を証言、象徴し、その抵抗精神は今日まで、そして明日のビジョンまで含まれている認識の道筋を示そうとしいるのである。五・一八は過去の事件ではなく、現在進行形の事実であるからである。光州事件から受けた大きな衝撃で、時代の激動にあった画家は、既成の美術への批判となり、美術のありようを問うた美術の民主化と民衆の中の美術を問うのである。
 華やかに大義をもって開幕された光州ビエンナーレは、時期と方法、資金運営面で異議が唱えられ、性急火急なる決定に対しては、光州の人々の主体性の問題をめぐつて特にかまびすしかった。市民の心の準備はもちろんのことであるが、焦って推し進めた間違いの指摘、「光州の主体性」に気付かなかったようだ。もっぱら収支と入場者数に関心と眼が向き、国際化と世界化のスローガンにおされ、政治と資本の論理のせめぎで押し切られたことを残念に思う。その反省と葛藤は尾を引き、閉幕後も引き継がれる問題である。主催者はえたものの大きさと共に、失ったものが多いことにも気付き始めた。光州ビエンナーレが残した後遺症は大きいと思う。
 その論拠の一つは、望月洞で開かれたアンチビエンナーレ展である。統一美術展と銘うっての野外展であったが、そこには光州精神の表明が厳粛に決然となされていた。
 墓域の参道には光州事件で民衆を殺戮した責任者・関連者をパロディ化した作品が展示されていた。例えば魯泰愚前大統領のギロチンの絵、全斗煥元大統領の口にチャックが描かれている絵など、こうした絵の展示許可が出ること自体民主化のあらわれであり、インパクトの強いものであった。驚くべき世の様変わりを感じたのは私一人ではないと思う。
 二十世紀の世界は、戦争・革命と歴史の激動期を乗り越えてきた。アーティストたちはその社会問題に関心を寄せ、敏感に反応し関わった。人間の悲しみと深い傷を受けながら、ピカソの「ゲルニカ」に見られるようにすぐれた芸術を生んできた。

 今、世界でもっとも腐敗した国は韓国であるとアメリカは言う。そのしつっこさ、執念深さ、露骨さには辟易するというが、韓国社会の歴史を変え世界化するためには、人治主義の清算の流れは大いに学ぶべきことであろうと思う。 日本の戦後五〇年間は、解決すべき問題を水に流し、取組むべき課題を先送りしたままで今日に至っている。その隘路の先方に展望は見えない。
 二十一世紀に向けた光州ビエンナーレは、西洋文化の優越性、権威主義を見せる宴ではない。     李龍禹光州ビエンナーレ展示企画室長は、光州ビエンナーレを、文化戦略、プロジェクトとしての積極的生産方式の一つとしての認識でとらえている。
 文化生産には支配者も被支配者も存在しない。相互の個性の尊重と交流にこそ生産性があるのだと主張する。
 「出品作家のほとんどが若いのは、新しい時代の芸術の展開を予見するためです。光州ビエンナーレを西洋文化の優越主義の宴にせず、今までの芸術の重要なパターンから除かれていた東南アジアや第三世界の作家を多様に招待した動機もここにあります。」と、東洋の主体的立場を堅持し、光州ビエンナーレが積極的な文化生産の母体となる自負を、NHK「日曜美術館」のインタビューに答えて語っている。
東南アジアや第三世界の多様な若い芸術家の紹介をするのは新しい時代の芸術の展開を予見するためである。わかりやすく言えば、若い国の若いアーティストの前向きの作品展示に意義がある。今までのような金のある大きな国のアーティストがもてはやされるのではないのだ。
 そして、芸術のためにでなく、芸術から離れて自分たちの生活から芸術を作っていこうとするのが、今日の世界的傾向である。光州ビエンナーレは、多くの矛盾を乗り越え新しい世界を見せた。平和の象徴としての大きな貢献を築いて行くものと、その意義を私は評価したい。

 「光州らしいビエンナーレ」、別の表現で言えば「われわれらしいビエンナーレ」、それは五月精神を真摯にとらえ「光州の主体性」を確立すること、光州を誇ることによってこそ存在が可能となるものである。世界の人々の願いと希望である光州ビエンナーレのメッセージは、期待に値するものであると確信する。

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