◇倒れた者への祈祷◇

伯仲へ ホームへ 次へ 戻る

続いてNHK「日曜美術館」は、洪成潭とかねてから親交のあった日本人画家を紹介した。富山妙子である。親交があったとはいえ、出会いは光州ビエンナーレ開会の日であったという。二人は出会うべき縁によって結ばれていたのだ。
 富山妙子は、光州事件が起きたその年、「倒れた者への祈り・一九八〇年五月 光州」を発表した。「聞いて下さい! 一九八〇年五月の光州で何が起こったかを。聞いて下さい! 街頭に流された血のことを」。日本で発表されたその木版画集は、沈黙を強いられた韓国人に代って光州の出来事を伝え、自由を求めて殺された市民たちに捧げるメッセージ、レクィエムである。 日本にも当てはまることであるが、それまで韓国美術の世界では、社会的なものや、政治色を帯びているものは排除され、タブー視された。発表すれば逮捕される圧政下の韓国では、光州事件が起るまで新しい美術運動は見られなかった。口があっても言うことが出来ない時代、耳があっても聞くことが出来ない時代、眼があっても見ることが出来ない時代であった。
 光州事件は画家たちにとって大きな衝撃となった。彼らは、この激動の中で既成の美術「統美術」に対して批判をもち、民衆美術に目覚めて立ち上がり、美術が民衆の中に入って行った時期となったのである。

 一九八三年八月、洪成潭が中心になって、市民美術学校が開かれ、市民の木版画教室は各地に伝わっていった。その時、韓国美術社会の知己で秘かに回覧され展示された富山妙子の作品「倒れた者への祈り」が、洪成潭の作品と間違えられて紹介され伝説化された。これが、韓日二人の画家を結びつけた縁なのだ。 富山妙子は、韓国民衆美術家たちに大きなインパクトを与えた。彼らに勇気と美術のあり方への問い、美術理論を形成する契機と影響を与えた。
 一九九五年九月二一日、光州ビエンナーレ開催記念シンポジウムで、永かった自らのたたかい、美術人生を振り返り、富山妙子は淡々と語った。

 誰のために、何のために絵をかくのか。これは、私が絵をかき始めてから今に至るまで、自問しつづけている課題である。
 私の少女時代は、日中戦争の起った満州のハルピンで送り、美術学校に入るため東京に出てきた時に、太平洋戦争が拡大し、私の青春を戦争が濁流の中に飲み込んでしまった。戦争が終って、その敗亡の意味を推量する批判意識が生まれると、私の眼は貧しい瞳で、日本の植民地時代に無数の韓国人を犠牲にした惨状に視線を送り始めた。したがって私の作品には、韓国をテーマとしたものが多い。
 その中でも、八〇年五月、光州坑戦の衝撃的な報道に接しながら制作した版画連作が、今回「光州五月精神展」に出品した私の作品である。
 なぜこのようなテーマで作業に没頭するようになったか。その前後の事情を話す前に、日本の政治現実の背景と私の意識転換の過程をまず説明しようと思う。
第二次世界大戦が終った後、日本では戦後民主主義といった時代があった。
解放の伊吹の中で、一九六〇年、二つの大きな闘争が起こった。一つは、日本のエネルギー資源が石炭から石油に変わり、炭坑労働者が大量に解雇されることを阻止しようとする三池闘争、もう一つは、アメリカとの軍事同盟「日米安全補償条約」に対する賛否の騒動が激烈となった「安保闘争」である。同じ年、韓国では、李承晩政権を倒した「四・一九革命」が、東アジアの歴史を大きく変える兆候をみせていた。
安保闘争のデモ隊参加数は六二〇万人を越え、東京の道路を埋めて政府を威圧した。私はデモに参加、その渦巻きの中で、日本の未来が開くのか考えた。しかし、このすべての炎は、「日米新時代」が発射した強力な防水布によって鎮火されてしまった。社会党党首が右翼少年の刃傷沙汰で死に、政府の所得倍増計画に乗っかった国民は、保守党に総選挙勝利をもたらせた。戦後、芸術家の社会参加が挙論されたが、このような闘争の挫折を味わった人々は、ニューヨークやパリは、今何をしているのか眼を向けるようになった。凄惨な戦争体験をへて画家になった私は、西欧中心の美術に疑念を抱き、炭鉱を素材とした絵を十年近く描いてきた。しかし、炭鉱が閉鎖され、私の絵の視覚的対象が消えて、私は深い失意にさいなまれた。
 一九六一年、失職した鉱夫たちはラテンアメリカに移民した。私も、その隊列に従って一年のあいだ南半球を放浪しながら第三世界を体験した。私の六〇年代は、そこから始まり、インド・中央アジア・西アジアを巡りながら、西ヨーロッパ文化圏との世界のちがいを経験したのである。

 私の芸術テーマは、宗主国と植民地の関係性に深く集中したのである。一人の日本人としてためらっていた韓国訪問を決心したのは、一九七〇年の秋であった。私は、森厳な軍事政権の下でも「四・一九精神」が地下水脈のように流れていることを見た。植民地時代の傷跡でもある南北分断の悲劇、ヤン・サンスの逮捕、投獄などの現実を心に刻んで帰ってきた。維新政権と闘争し牢獄に入れられた金芝河の詩「五賊」を読んで、版画を制作し、それを映像にして彼の釈放を求める集会に出るようになった。映像として試みたのは、大衆を説得しやすい視覚的方法だと考えたからである。今も私の作品を映像として手がけてくれる制作チームとともに楽しみ活用している。
 そうして一〇年たった一九八〇年五月、光州で起こった坑戦の衝撃的報道に接する。テレビ・ニュースで見る光州現場の場面はあまりにもひどいものであり、言葉では言い表せない悲しみと怒りを抱いた。
 光州市民と戒厳軍の間に起こった熾烈な攻防戦の末、戒厳軍が退くことによって光州になんの抑圧体制もない市民権力が生まれた。市民が闘争し築いた共存の自治体、たとえその期間は短くとも、市民の自律的な協力と秩序がもっとも平和に維持されたと、当時の現地の人々は回想している。私がテレビで見た自由光州の姿は、朝日を見るような眩しさそのものであった。そして二七日、再び自由光州は戒厳軍の攻撃で血まみれと化し、暗黒の八〇年代の前奏曲が始まったのだ。
 このような光州抗争を見守りながら、私は奇妙にも一八七一年三月、パリの市民・労働者によって新しい自治政府が打ちたてられた「パリ・コミューン」を想起しないではいられなかった。しかも、パリ・コミューンもまた短命だったが、多くの芸術家たちがパリ・コミューンに参加した。有名なグスタブ・クールベは、コミュンの美術監督となり、始めにナポレオン一世像を柱からこわしてしまった。若き市民アルトル・ランボーは、「気が狂いそうな怒りをもって多くの労働者たちが死んでいく戦闘の真っ只中で、いま私は手紙を書いている」と、友人に当時の心情を伝えている。ランボーが目標とした「生を変えてしまおう」という言葉は、二〇世紀超現実主義者アンドレ・ブルトンに及ぶ。パリ・コミューンが求めていた共存・共生の声を光州の中で見ると考えたのである。

 八〇年五月以降、私は急ぎ作品制作に没頭した。金大中や詩人高銀など多くの人々が投獄された状況下、言葉と文字をしばられた韓国の作家たちの身代わりになって、光州の真情を知らせ、とじこめられた彼らの釈放を求めるために「倒れた者への祈り・一九八〇年五月 光州」という版画シリーズを作った。そして関西地方で巡回展を開き、札幌でも展示した。
 光州とパリ・コミューンを同一視したのか、フランス・アムネスティが私の絵のシリーズを短篇映画に制作した。そして八二年には、パリに住む画家李応魯夫妻が私を招待してパリで展覧会を開いた。そのたびに韓国同胞たちが歓迎してくれ、ベルリン開幕展では作曲家尹扶桑氏が特別講演をした。李応魯・尹扶桑両氏は、六七年、ベルリンから韓国に拉致送還されたが、ドイツ政府の抗議で現状回復された方々だ。お二人は、韓国海外同胞たちがくりひろげた民主化運動の象徴的存在として尊敬を受け、実質的に多くの助けを与えた。
 私はパリの李応魯氏宅で二ヵ月間滞在し、同じ家族として過ごした。その間に生に関して多くの対話をしたことが、後日『ソウル・パリ・東京』という本を書くことになった。彼との対話の中で強い印象として残ったのは、光州に対する言及であった。
 「一九六七年からの三年間をソウルの牢獄の中で過ごしたことは、私にとって人生の学校でした。ただ絵を描くことしか知らなかった私にとって、それはおくればせながらの覚醒であり、内面に芽生えた伊吹きでした。そして光州事件以後、人々に訴えることのできる抗争的な画風に変わったのです。私の作品「軍隊」は、光州の人々をかぎりなく考えて描いたものなのです。いつか光州に行き、あなたと共に展覧会を開く日が来ればいいですね・・・・」
 パリに滞在したある日、私は李応魯氏の夫人である画家の朴仁景さんとペール・ラシェーズ(Pere Lacheise)という墓地に行った。そこはパリ・コミューンが最後まで抵抗して処刑された場所である。私は、詩人高銀さんを思いながら赤いカーネーションを買った。作家メリメナ・エドワールが眠る墓地の間に深く入って、一枚の碑文と出会った。
 フィテレの壁は、コミューンの兵士達が銃殺隊によって射殺された場所だ。「一八八一年五月二八日」 壁に刻まれた日付を見て、我々は互いに顔を見あわせた。偶然の一致なのであろうか。五月二八日、その日は光州市民が最後の抵抗に敗北した日なのだ。壁の下の土には、誰が供えたのかいくつかのカーネーションの花束が置かれてあった。その鮮明な赤い花びらが、土に流れた血のように・・・。
 パリ・コミューンとは一体何だったのだろうか。「文明が今日のように人間を災害に追いやる方向において、その進路を逆転させようとするカーブの道に反射的に跳ね上がる発作症状(前駆症状)、それかパリ・コミューンであったのである。それは、良心が放射した奇跡的な閃光であった。一言で言えば、本当の革命であった。」(P、カスカル『ランボーとパリ・コミューン』)という見解に私は共鳴する。
 その閃光の中にクールベやランボーがいたのではないか。そのように、光州もまた同じ光を発したのではないか。ペール・ラシェーズ墓地の木々はコミューンの兵士たちが流した血を吸いながら育ったものなのであろう。五月の風と緑色の火柱のように燃え上がる深緑が目にしみる。
 一九八九年、李応魯氏は故国の土を踏むことができないままでこの世を去った。彼は今、ペール・ラシェーズ墓地に眠っている。
 そして九五年九月、光州ビエンナーレで、李応魯氏の作品と私の「五月 光州」作品が対面展示されたのだ。遠くまわった歴史の動きが、光州での出会いに導いた。
 木は伐られたが、その根から新しい息吹が生まれ、光州は生まれ変わったのだ。市民が自由の自治体をつくった光州は、アジアの新しい明日を開くであろう。



 富山妙子は決して野心的で闘争的な作家ではない。綿々と日帝の野獣のような罪悪と野蛮性を暴露してきたが、素朴で清らかな魂をもった良心的な作家なのである。民衆の中で生きようとする哲学と温かいヒューマニズム、「共に死に共に生きよう」という精神が脈々と生きている。
 彼女の光州ビエンナーレ出品作品は、八〇年に制作した木版画集「倒れた者への祈祷・一九八〇年五月光州」と、当時の生々しい新聞報道記事をコラージュした、縦四メートル、横七メートルの大作で、会場を圧倒した。この作品を見た多くの市民たちから、当時韓国人の誰もがこれほどの勇気をもって表現した告発の作品を発表することは出来なかったとして、この日本の女性作家に対する敬意と感謝の言葉が発せられた。歴史と未来に向けての視点と姿勢、芸術家と社会との確固たる接点を表現した作品は、具体的で感動的な記念碑である。

 永かった旅の果てに、「境界を越えて」、神の国にいる李応魯の作品と富山妙子の作品が出会い、光州市立美術館二階第四展示室に対面展示された。奇しくもその展示室は私の記念室であった。このご縁は、私の大きな喜びである。 「挫折は敗北を意味しない。光州は希望であり、未来である。光州は、二十一世紀のアートの発進地になりうる」と、富山妙子は私に語った。その眼は澄んで美しく若々しかった。

次へ 戻る