◇光州ビエンナーレの感動◇

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洪成潭(ホンソンダム)は、自らが民主文化運動を進めながら制作をつづける代表的な民衆画家。韓国の芸術家たちの苦難の歴史を全身で生きてきた画家である。北の青年統一美術展に作品のネガを送ったことが反共法に触れるとして投獄され、裁判にかけられた。最近ようやく解放されたという苦い経験をもつ若い作家である。出品作品は「月光に晒された涙」など五点で、作品「千人」は実際にこの地方にあるという村人が作った千体の仏像を題材にしたもの。たくさんの仏像の間には、民主化運動のために命を捧げた人々の姿が描かれ、自分の自画像も入っている。この作品には、亡くなった人々への鎮魂の想いとともに、心を一つにして共に暮らせる社会を作ろうという願いがこめられている。
 洪成潭のアトリエでのインタビューの間、数人の若い青年たちが次々に集まってきた。その青年たちに囲まれて、彼は熱っぽく語った。自由に。真摯に。
 「我々の人生がすばらしいものであるだろうというのは、将来の世の中に対する楽観のためである。しかし私が足をふみしめて生きてきた私の土地の歴史と時代は、未来の世の中にたいする楽観を放棄せざるをえないようにしてしまう。
 形態をもっているこの世のすべてのものは、いつかは消えるものである。人間もそうである。
人間の形態である肉身は結局消え去り、その人間が未来の世の中のために追求した魂の痕跡だけがのこり、生き残った人々の周囲をさまようだけである。人間の生の形態とは、骨は土になり肉は水になりある植物の根に吸収され、再び茎を通じて身や穀物となって、それは未来の地を開くために生きていく人々の食料となることである。
 私が生きてきた土地、そして私が生きてきたそんなに短くも長くもない年月は、生≠謔閧熈死≠強要する。いっそのこと死はよろこばしいことかもしれない。軍事独裁という不義の力は、死ぬことよりももっと暗い長い眠り≠フような沈黙を強要した。
 数多くの友人と同僚が、ある日突然どこかに連れ去られた。そしてそのほとんどがついに我々のもとに返ることなく、再び会うことができていない。我々の世代のものの体には、母親のお腹の中にいた時から、六・二五祖国戦争の傷跡が深くきざみこまれているのかもしれない。
 イデオロギーの極端な葛藤は、この世のすべてのものを二分法だけで見るように強要し、我々みんなを分裂症患者にしてしまった。労働烈士全泰壱(チョンテイル)の焼身以後、多くの人々が希望のある未来を切り開こうと正義の死を続けた。牢獄でも、多くの人々が死んでいった。

 八〇年五月、新軍部の計画的な陰謀によって、光州、まさに私の町光州で、戒厳撤廃と民主回復を要求する平和的なデモ隊に対して無差別に銃弾が打ちかけられ、多くの人々が倒れていった。錦南路で、忠壮路で、彼らの正義にあふれた命は花びらのように倒れていき、血で染まった無等山は大粒の涙を声もなく流しながら彼らのいたたまれない死を悲しんだ。
 過去十数年の間、我々は軍事政権のあらゆるかくされた蛮行と対決しなくてはならなかった。美術も例外ではなかった。良心的な画家にとって、彼らの暴力に対抗することのできる武器は、まさに絵画しかなかった。これが、韓国八〇年代の民衆美術のその出発点である。
 私は、八〇年五月、光州抗争当時、現場で市民軍とともに文化宣伝隊の一員として参加していた。その後も、新軍部の不義の暴力との戦いは金泳三のいつわりの文民政府が誕生するまで十二年間続いた。
 やはり数多くの若者が、彼らの蛮行に歯をふるわせながら自分自身の体に火をつけ死んでいった。目の前も見えないような暗闇の時代を、自分の体で明るくしようとする死は、焚身≠ゥら焚身≠ヨと続いた。その数えきれないほどの死は、私の心にしこりとなってつっかえている。
 食事の時も、眠りに入る前も、道を歩く時も、その悲しいたましいが私の心の中で叫んでいる。それら死人の怨霊が、私の体の中を常に行き来している。そのなぐさめられない魂は、あの世へ行くこともできずに九万里長天をさまよった挙句に、結局私の中のどこかにうずくまっている。
 いつからか私の絵は彼らの魂をなぐさめるものになってしまった。死んだものたちの悲しい魂をなぐさめ、彼岸の世界に送ってあげることだ。悔しい霊魂の恨みをはらし、あの世に行くことのできる存在にしてあげることだ。
 我々の時代、我々の土地のために、力をあわせて共に生きていかなければならない将来のために死んでいった魂をなぐさめ鎮めるために絵をかく。このような絵の過程は、実際に彼らの死をもう一度ゆっくりと再現してみる過程を通じて、こうして生き残った私が彼らを理解することができるようになり、私を彼らに理解させることができるようになる。
 したがって、今回のビエンナーレに出品した私の絵もまた、絵を描く過程を通じて、生きている人が死の過程をもう一度経験することによって、お互いの恨≠はらす場になるのである。すなわち、生と死とが和解する儀式でもある。
 また私の絵は、寂しく死んだ魂をあの世に送ってやる以外に、生きている人を死から解放してやることができればなおいい。どうせ生と死は、共存することができない。どんなに貧しい生でも、命を保護するために死の影は引き下がるしかない。そして生き残った人々が互いに悲しみを分かちあいながら和解し慰めあって喪失の痛みをこえて新たな生をはじめる出発点にならなくてはならない。それによって、私は法律を行なうように絵をかく。いや、絵≠ノよって法律≠行なう。
 新軍部の遺産をかかえて出発した金詠三の文民政府は、光州≠ねぎらうために、大規模の祭典を必要としたのかもしれない。第一回光州ビエンナーレが開かれる今年が、光州虐殺の責任者たちに対する控訴の時効が成立する時点であるという潭から見れば、早急にはじめなければならなかった光州ビエンナーレの背景には、不幸にもそのような政治的な陰謀がかくされていることを見過ごしてはならない。
 しかし光州の経済的・文化的・社会的地形は、光州ビエンナーレを必要としている。光州ビエンナーレが単純な美術祭として終わるのではなく、光州≠フ栄光と傷を打ち出し、世界のいたるところで今もくりひろげられている虐殺と抑圧の地を探し出し、疎外され迫害されている彼らに勇気をあたえ、お互いになぐさめあうことのできる新たなビエンナーレとして立ち上がることができれば、これ程よい機会はない。
 このたびの展示場で、観覧客は第三世界の若い作家たちの絵から、それらの歴史と現実の傷を癒そうとする力と、その社会がもつ暴圧と葛藤の構造に抵抗する輝く精神を経験しただろう。
光州市民は、彼らにこまやかな愛情を送りながら、同時に十五年前まさにこの地でくりひろげられた痛恨の歴史をなだめながら、人類の未来は必ずそのような悲観的なものではないだろうという確信で今日≠ニいう日を一生懸命生きていくだろう。
 光州市民が必要とする光州ビエンナーレは、単なる美術祭からぬけだすために境界≠越えるのではなく、人間の尊厳をおびやかすすべてのものを警戒≠オ抵抗≠キる芸術精神で輝くことができるようにすることだ。それが輝かしい大規模美術祭でなくても、素朴な形態のどのようなものでもいい。良心≠ニ道徳≠ニ明日≠ニ熱情 がいつも勝利するところ、光州≠ヘまさにそのような精神で光州ビエンナーレをきずいていくだろう。

 洪成潭はまばたき一つせず、取りつかれたようにカメラに向かって語った。聞き終えて私は我にかえった。そして大きく深呼吸をした。一時間もの間、呼吸もせずに聞き入った思いであった。私はあまりにも光州を知らなすぎた。そして絵というものの哲学を知らなすぎた。人生とはこんなに重くやるせないものか。生きるということは、こういうことかと知らされた思い。目からうろこが落ちるとは、こういうことをいうのかとも思った。これまでも感動は数々あったが、この時の感動は手応えのずしりと重い確かなものであった。光州ビエンナーレの感動は、一味も二味もちがうものとなった。

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