◇NHK「日曜美術館」◇
光州ビエンナーレが閉幕した。光復五〇年を締め飾るにふさわしい、記念すべき国際美術イベントであった。 その会期をあと数日残す一一月一一日から一七日まで、私はNHKスタッフ等とともに光州に滞在し、「日曜美術館」撮影のため立ち会い、コーディネイト役を果した。一二月三日、「光州ビエンナーレリポート」として四〇分間放送された映像を見て、感慨深いものがあった。私が見て感じた光州ビエンナーレが、その映像の中にしっかり収められ記録されていたからだ。在日同胞はもちろんのこと、日本国民にリポートできたことは、私の喜びであり、父母の故郷光州を誇りとする。 実はNHKより取材協力の以来があったのが一〇月一八日のこと。二八日には組織委員会に取材許可申請と表敬訪問、そして下準備のためスタッフらと光州へ飛んだ。取材のスタッフらが異口同音に発した言葉は、「知らなかった。こんな大規模で盛大なビエンナーレが開かれていたとは」であった。「驚きはソウルではなく光州であること。首都でなく一地方都市で開かれる意義の大きさ。光州のもつ意味とビエンナーレ開催の意味がわかったような気がする」と述べたことである。ビエンナーレそのものよりも、光州という都市の魅力、歴史に対する共感と連帯感を感じ、愛情を抱いたようであった。その時のインパクトがそのまま映像に反映されていた。 それは、インタビューする画家の選定にもっとも顕著にあらわれてる。禹済吉(ウ・ゼェギリ)の出品作品は「あの日の声そして光」。光州民衆抗争犠牲者の冥福を祈るものであった。作家のメッセージには、悔恨、痛恨の想いがあふれている。 「一九八〇年五月の光州は、我々の希望の始まりだった。夢の間のようなあの日の喚声、歌声。そして津波のように押し寄せる心臓の音、その熱かった我々の青春の声、朝の光。しかし、最後の日、血でそまった夕日・・・。 光州は、民主化の大章程を知らせる始まりであった。喚声、歌声でつつまれた錦南路、道庁前の広場で。しかし、我々の夢は、それほどたやすくは実現しないようであった。我々の熱い息づかいは錦南路を過ぎ、無等山・智異山を越えて、はるか遠くまで伝わらなければならなかった。我々は希望の中で、日々を送った。いつかは我々がおくった希望のメッセージがより大きな響きとなって返ってくるだろうという信念をもって・・・。 ああしかし我々に返ってきたのは民主ではなかった。希望でもなかった。甚だしく無知で言行の荒々しい権力者たちが送った戒厳軍であった。彼らの銃と刀と軍靴。しかし鉄のくさびの中にも花は咲くもの。彼らの軍靴の響きの下でも、民主の花は執拗に花ひらいた。強いその花の香りは、人間ですらない戒厳軍を退却させた。そして道庁の前、忠壮路、錦南路・・・、光州のすべての地に勝利の旗がひるがえった。我々がみな平和で自由であった解放光州。しかし喜びの空気の中にも悲しみがあるもの。子を亡くした母親、夫を失った妻が、友人を失った若者が流すいたましい涙で、光州には悲しみの海ができた。 そして彼らの粛正作戦の開始、我々の心臓をしめつける彼らの包囲網、またもや鳴り響く軍靴の響き。自動小銃の声、タンクの地響き・・・。ああ、お母さん、お母さん、お母さん・・・。 我々はまたもや暗くて苦しい世界へとひきずりこまれたのである。もしかしたらもっと真っ暗で長い冬であるかもしれない。まだ裸足で歩かなければならない平野は広い。越えなければならない山は高い。 新しい時代、二〇〇〇年に我々は美しくきらめく光を見るだろう。その年の光州の五月。その日の人々が蒔いていたその光り輝く光を・・・。」 禹済吉は、望月洞の墓地で桜井洋子アナウンサーのインタビューにこたえて痛切な胸の内を語った。 「事件当時ソウルにいて、光州に戻ることがどうしても出来ず、その時の想いが十五年のあいだ心の痛み、重しとして残っている。今回、どうしたら当時の状況を生かし現わせるか、心の借金を少しでも返せるかの想いで制作した。多くの烈士が光州のために平和と民主化を要求して命を投げ出したのに、私は何をしたのかと考えると、恥かしさでいっぱいである。」 無等山の山脈に響く音、そして光り。当時の音を合成した禹済吉の作品が、ビエンナーレ観客による最高人気作品に選ばれた。それは、人々の熱い共感によるものであり、当然のこととうなづかされる。 |