◇田沢湖姫観音の前で◇

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田沢湖は一年で一番美しい秋の名残で、木々の彩りが映えて絵葉書の写真を見るようであった。穏やかな残照の中での撮影は順調に進み、一〇月二二日、田沢湖畔の姫観音慰霊祭での撮影となった。
 法要に先立ってわらび座の舞踊家黒田龍夫さんが、岩手県の民族舞踊鬼剣舞を奉納した。鬼剣舞は死者の魂に捧げる鎮魂の舞であるという。鎮魂とは、死者の魂を鎮める「たましずめ」の意味とともに死者の魂を奮い起たせよみがえらせる「たまふるい」の意味をもつという。
 大地を轟かせるような太鼓の響きと、湖面を波起たせるような笛の調べ、白い鬼面を付けた舞い手が、大地を踏みしめ扇子をひるがえして舞いつづけた。 姫観音の静かな慈顔と、導水路を通して轟々と湖面に流れこむ激流の様が二重写しになって、わが胸中を去来した。
 私はキラキラと輝く翡翠色の湖面を見つめながら、戦後五〇年のときの流れの重さをしみじみと感じていた。
 法要につづいて、主催者代表と来賓の田沢湖町長のあいさつがあった。二人とも朝鮮人無縁仏はおろか工事犠牲者のことにさえ一言もふれなかった。参列者たちのなかに重苦しい空気がよどみ、かすかなざわめきが起こった。私は心中おだやかではなかった。
 その時とつぜん、司会者から前ぶれもなく指名されあいさつを請われた。
私は席を立って観音像の前にすすんだ。胸の内に嵐が吹き荒れていたが、気持ちは不思議なほどに冷静であった。
 「姫観音にまつわる話は、みなさん一人一人の心の中にあることですから、私はあえてふれません。ただこの場所でかつて不幸な事実があり歴史があったということは、私がわざわざ話さなくても理解していただけると思います。」 私はこのような趣旨の言葉をのべて席にもどった。いま一度会場全体を重い沈黙がおおい、訝しい空気が流れた。
 呉監督はその時の一部始終をカメラに収めていた。苦渋の顔は黒ずんで見えた。
「河さん、まだまだだねえ。いつまでたっても変わらないものは変わらないねえ。」と私を慰めるような眼で語った。そしてひとこと「残念だねえ。」と言った。
 一〇月三一日、韓国から帰った我が家に、秋田の友人からファックスが届いていた。一〇二八日付けの「秋田魁新報」夕刊のスクラップであった。

 「姫観音」と題するその文章は、慰霊祭の当日取材にきていた魁新報社の角舘支局長佐川博之氏が、「地方点描」欄に署名入りで書いたものであった。

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