◇ビエンナーレ茶会◇

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「一九九五年五月二五日、朝日新聞朝刊を読んで、光州ビエンナーレが開かれることを知り、何かに追い縋るような気持ちでペンをとりました。私は在日韓国人です。日本で生活をしておりますが、時には自分が何国人なのか迷う時もあります。それは自分が韓国人であることです。記事によりますと、『文人画と東洋精神展』が開かれ、富岡鉄斎の画が出品される予定とのこと。
 私は、鉄斎が好んだといわれるお煎茶を日本の方々と楽しんでおります。また鉄斎美術館にも何度も行き、そのすばらしさに感動しております。その文人画展の少しの空間にどうかお煎茶のお点前の出来る場所と機会をもうけて下さい。禹嶋連」右の手紙が朝日新聞大阪本社宛に届いたのが、五月二六日であった。七月下旬のこと、朝日新聞東京本社学芸部田中三蔵記者から、「大阪本社から手紙が回送されてきたが、河さん、禹さんの願いをかなえてあげて下さい。」と電話がかかったが、私には関心がなかった。それは、身辺があまりにも忙しかったからだ。
 禹さんから追って手紙が届いたが、気が乗らず対応に困った。
「はじめまして今秋、国際美術展開催、富岡鉄斎出品に関する新聞記事を読み、お手紙を書きます。国境を越え、五〇ケ国もの人々が光州市で一度に出会うということ、また光復五〇年という重要な年に、多様な文化に接するということによって、各民族を認め尊重することによって、国際人として自覚し、民族戦争、宗教戦争が少しでも少なくできればいいと思います。私が住んでいる兵庫県赤穂市は、人口五万人の小さな都市です。赤穂に引っ越してからすぐに生け花を習いはじめたのは、今は亡くなられた小野先生との出会いでした。小野先生は、私が韓国人も生け花を習うことが出来ますかとたずねますと、美しいお花に国境は関係ないとおっしゃいました。生け花を習っていると、茶道も習ってみないかとおっしゃいました。茶道は韓国人には必要ないと答えますと、茶道は日本人も韓国人も親しむことが出来ると教えて下さり、茶道も習いはじめることになりました。小さな茶碗を通じて日本人とのわだかまりもとけ、心からつきあえる友達もたくさんできました。今までは韓国人として特別に意識せずに生活して参りましたが、今度の新聞記事を見て心が熱くなりました。光州ビエンナーレの会場で、在日韓国人として観客にお茶をもてなすことができることを幸せに思います。兵庫県赤穂市居住 在日同胞二世 禹嶋連」
 私はお茶についてはその心も作法も知らない門外漢である。京都の哲学の道にある松寿庵の茶室や利休ゆかりの大徳寺茶室で抹茶をいただいたことがあるにはあるが、いやに形式や作法が小難しく堅苦しいのが性にあわず馴染めなかったからだ。
そうこうしている内に、ご本人から直接電話がかかってきた。
「私に機会を与えてください。よろしくお願いします」と何度もくりかえされた。電話の向こうから、その熱い思いがひしひしと伝わってきた。私は富岡鉄斎の画を東京国立近代美術館から借りだした関係もあり、こうなったら絶体絶命、やるしかないと、光州ビエンナーレ組織委員会に伺いをたてた。コミッショナーの張錫源教授と打合せて推進するよう返事をもらったことで、禹さんの願いの茶会が開かれる運びとなったのである。
 私は日本の煎茶についてにわか勉強を始めた。禹さんの世界と思いが、何かおぼろげに見えてきたように思えたので、一文を書いて韓国の人たちへのメッセージとした。



  光州ビエンナーレ記念お茶会によせて

 文雅養生の技事とうたわれ文人墨客に愛される煎茶、権勢と富貴に魂を奪われることのない独立不羈の精神に富む寒酸の士が大自然への帰一の中で見出した一つの境地。
劇飲の無風流ではなく、佳茗一喫の繊細さに肌骨を清め、仙霊に通じ、両腋に清風を生ずる世界。小さな道具だが一瓶の中に乾坤を生ずと、その気概は無限である。
煎茶の究極の独自性をつきつめていったのが京都の医者小川可進であった。一七八六(天明六)年のことである。
 煎茶の世界における先駆者高遊外が、一七三五(享保二〇)年に京都東山に通仙亭を構え、煎茶による売茶行為に出たのは、抹茶の世界が腐敗と堕落の様相を呈し、当時の茶事をこととする禅僧社会への批判の中から生まれた革新運動である。
つまり、茶室の中での主客の形式的な動作、常に千篇一律な所作、それを虚偽と見、無用とみなすことである。簡便で行動の自由のきく茶道具類、火を起こす涼炉、湯をわかし茶葉を入れる茶瓶、小さな茶碗、たったこれだけで事足りる清楚さ。
なんの釈明や解説を下すことなく、ただ行動によって示す煎茶は、風流の遊びの世界。文雅な精神的世界。ロマン主義的郷愁の世界。
 黄O山万福寺を京都宇治に建立した隠元禅師和尚(一六五八年、中国より日本に渡来)と共に、煎茶の法が伝わる。器具も、中国・韓国から南画と共に伝わり、文化・文政年間(一八〇四〜一八三〇年)に文人墨客がすこぶる親しみ盛んになる。   璧 栗

 茶の席にては真心をもって客に接するを茶の本旨とする。
光州ビエンナーレ国際特別展「文人画と東洋精神展」の富岡鉄斎等の画を掛け軸と見立て、その前にてお点前をするならば、一期一会を大切にする茶の心にもかない、万人茗主、上客たらしめることが出来るものと思う。

 小川可進は「茶は活物なり」と看破。「真の茶味は、渇きを止むるに非ず、飲むに非ず、喫するなり。」「火は父なり、水は母なり、茶は子なり。烹法活用の第一は火を原(もと)とす。湯は火に在り」と活物視する自然観。煎茶の境地は達観の世界である。

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