◇わらび座記念講演◇

伯仲へ ホームへ 次へ 戻る

九月二八日は、本公演初日。早朝からKBS放送のスタジオ入り、そして数社の新聞の記者会見で飛びまわり、午後からは各テレビ・ラジオ局からの取材依頼でテンテコ舞いの状態で、「わらび座」「わらび座」とだけはしっかり話をしたつもりだが、何を話しているのかわからぬほどのキリキリ舞いとなってしまった。
午後三時、本公演の幕が上がった。
 光州ビエンナーレでのわらび座記念公演は、舞踊集「潮の流れにのって」である。光州ビエンナーレのテーマ「境界を越えて」に共鳴し、海峡を越えて日本の伝統的な踊りや太鼓、海をテーマに新しく創作した、いずれも庶民の心、連帯の心を表した作品である。
 水口囃子・恵比寿舞い・櫂の踊り・海幸・海の慟哭・虎舞・もみ太鼓・宝船と、約一時間にわたってわらび座の魂を舞い演じた。
 特に「海の慟哭」は、この記念公演のためのオリジナルである。日本の東北地方の海岸の村に墓獅子という民族芸能がつたえられている。海で命を落とした人々を弔う獅子舞である。その獅子舞を発展させ、夫とわが子を失った女性の姿をかりて、亡くなった数多くの魂に捧げる鎮魂の想いを表したもので、夢幻能の舞台を見るようで心にしみた。
 口笛、手拍子、拍手、満席の観客の熱いコールは、仲外公園野外公演場を感動のるつぼと化してしまった。公演終了と同時に、またまた報道関係者の一斉インタビュー攻めにあうこととなった。そして出演者全員による「アンニョンハセヨ! 光州ビエンナーレ チョッタ!」の映像が収録された。公演の模様は、テレビ・ラジオを通して全国に流され、わらび座公演の成功を多くの韓国国民にアピールした。この日わらび座は、ビエンナーレ観覧客の話題をさらい、わらび座デーを強く印象づけた。まさに記録に残る大成果であったといえるであろう。
 公務超過密スケジュールの中、市長・副市長、組織委員会の幹部、ソウルからも演劇関係者、劇団「美醜(ミチュ)」代表孫振策先生もかけつけ、公演をご覧くださった。
翌朝市長から、心のこもった感想文が寄せられた。
 「まず、九五年光州ビエンナーレに参加していただき、すばらしい日本の伝統芸術を披露してくださり心から感謝しております。私は、『潮の流れにのって』を拝見し、貴公演団の歴史と伝統を物語る強烈な個性とすぐれた独創性を感じました。とくに、恵比寿舞≠フ場面では、釣りをする恵比寿の姿から、幸せと喜びを感じとることができ、とても印象的で独創的だと思いました。太鼓の合奏で、二人が太鼓を担ぎ熱演した際は、観衆が一緒になって手拍子を打ち、演技者と観客が一体化した、とてもすばらしい構想であると感じました。観衆がよりよく作品に共感し理解できるように、団員の皆様が渾身の情熱を注ぎ、特色豊かに創作した公演の場面は感動的でした。私は、この作品を観賞しながら、これは人生の喜怒哀楽を大自然の海にたとえて表現した作品ではないかと思いました。この立派な作品が、照明と舞台施設がもっとよく整ったところで公演されていれば、もっと素晴らしかったのではないかと思いつつ、あらためて貴公演団に賛辞と拍手をお送りします。なにより原由子団長様と、本公演の実現にご尽力くださった河正雄様をはじめ、団員の皆様に感謝いたすとともに、皆様のご健康とより一層のご活躍をお祈り申し上げます。一九九五年九月二八日光州広域市市長 宋彦鍾」
 わらび座に対する愛情と関心の深さを示すものとして、私は市長に敬意をはらった。



 大成功をおさめたわらび座公演であったが、熱気につつまれた会場の片隅で忘れられない場面があった。市長と私が座っている席のすぐ後の方で、鳴りやまぬ拍手に苛立つかのように六十代後半の老人が大きな声で叫んだ。
「なぜ拍手をするのか。してはいけない。ウエノム(倭奴)!」
憎々しげに叫びながら、観客の拍手を必死になって制止しているのだ。
振り向いた市長は暗く悲しい表情で私の顔を見てうつむいてしまった。その老人は酒に酔っていた。側にいた老婦人がつぶやいた。
「良いことであることはわかっているが、どんなに立派でも、過去にあんまりむごいことをしたからねえ。」

 韓国の人々のなかに根強い「反日」感情が存在することはわかっていたが、こんなにも痛切に感情をあらわにした現場を目のあたりにして、私は一瞬たじろぎ戸惑ってしまった。若い世代は確実に未来に向っているが、旧世代、植民地時代を生きた人々には、恨に生きるしか術がないのかもしれないと、その老人をいとおしく思った。その時、父母の顔が瞼にちらついたからだ。日常ことあるごとに荒れては恨を吐いた父の姿が脳裏にありありと甦った。二人の老人たちの心中が、痛いほど私の心にしみた。境界は遠くにあるのではなく、厳然と目の前にあったのだと知らされた。

次へ 戻る