◇青天の霹靂◇

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わらび座ソウル公演がすべて終ったところを見計って、私は原由子団長を光州へ案内した。光州ビエンナーレ記念公演決定を受け、市長および組織委員会への表敬訪問である。ソウル公演の成果と評価をふまえ、光州ビエンナーレにかけるわらび座の抱負を合同記者会見に臨んで語った様子は、その日のTV、新聞のニュースとなった。日本の民族歌舞団わらび座が光州ビエンナーレで記念公演することは、この日光州市民に知れわたり、祝祭のムードを盛り上げる効果を生んだ。
とどこおりなく記者会見が終ったところで、呼ばれて光州ビエンナーレ組織委員会実行委員長室に案内された。その席で唐突に出された姜鳳奎委員長の話にはびっくり困惑させられた。           「光州ビエンナーレの特別展「光州五月精神展」のため光州市立美術館の河さんの記念室を期間中空けて貸してほしい」と申し入れられたのである。 
 わたしは、判断ができぬほど戸惑い迷い考えあぐんでしまった。基本的には協力、快諾せねばならないことと理解しながら、どうしても納得がいかない。何の前ぶれも相談もなく、私のいないところで話が進められていたことが不愉快きわまりなく、感情がムラムラと沸いてくるのを押さえることが出来なかった。翌朝、事務総長である丁栄植副市長が、組織委員会幹部をともなって私が泊まっているホテルへ訪ねて来た。オープン会期まであと数十日のこと。
「光州五月精神展を開くグループの勢力は、光州では影響力がある。あなたのために展覧会が開けないことになると、その勢力を敵に回すことになって、あなたの名誉に傷がつく。なんとか応諾してほしい」というのである。
 私はその話を聞いてますます意固地になってしまった。古い体質、作法、説法が、私にはあわない。延々とつづく膝詰め談判は三時間にも及んだが空まわりでラチがあかない。
「何故にそんなに無理強いをするのか。ありのまま、自然のまま、今の光州をそのまんま、光州ビエンナーレを静かに見ていただくことが一番美しい姿ではないか。私の記念室を世界の人々、日本からのお客様、そして国内の人々に在日の歴史、美術を見ていただくことは、かけがえのない機会で、在日の我々の喜び苦しみをわかってもらうよい機会なのです。
どんな大義名分があるのか知れないが、そんな一方的な話は理解出来ない。名誉に傷がつこうが、彼らを敵に回そうが、私権を守る私にとっては重大な問題であるから、口頭ではなく正式に公文で申し入れてほしい。」と、その場は回答を保留して日本に帰った。
折角の光州訪問が、ふってわいたようなこの問題で終始し、原由子団長に多大な心配をかけしまった。後味の悪い光州訪問となった。



 一九九三年五月下旬のこと。二年ぶりに光州を訪問した。友人の呉承潤画伯と再会を喜びあった。
「河さん、昨年光州に市立美術館が出来た。遊びに行かないかい」と誘ってくれた。彼は美術館の運営諮問委員であった。
 「韓国の地方都市では初めての公立美術館が光州に出来るとは、さすが芸郷である」と喜んだ。
「河さん、一つお願いがあるんだ。美術館を建てるには建てたが、所蔵作品が少ないのだ。あなたのコレクションの作品から一、二点寄贈してもらえないだろうか。」と様子を窺うように話した。
「一、二点ということは、たして三点ということですか。私の故郷のこと、ましていわんや私の美術コレクションが役に立つならば」と冗談をいいながら即座に寄贈の決心をした。
 落成して間もない光州市立美術館を訪れて、私はその規模と設備の立派さに驚き感激した。当初私はささやかな規模の建物を想像していたが、実際に見たそれは、日本でもめったに見られないほどの本格的な施設であった。光州市を一望に眺められる小高い丘の上に建っている美術館の周囲には、大小の文化ホール、国楽ホールを有する一大文化芸術の殿堂であった。その偉容と設備には堂々たる風格と品格があって、私はうれしさを押さえることが出来なかった。 車鐘甲美術館長に紹介された。
「河さんが、訪問記念に二、三点作品を寄贈して下さるそうです。」
アレレ、話が違うではないか。一、二点という話が、いつのまにか二、三点に変って、紹介された呉画伯の顔をチラッと見たら、何ともいえぬ茶目っ気の眼で笑っている。
「要するに二、三点ということは、五点ということですね。」と念を押すように茶目っ気のウインクで答えたら、コクリと頭を下げたのだから、一同大笑い。
「館長さん、どこか体の具合でも悪いのですか。顔色がすぐれませんね。」 「オープンまでこぎつけるのに二年も全国を回って作品の寄贈を願って作家たちから協力を得たのが百数十点。これでは運営上美術館の機能を果せないので困っているのです。」                         車館長は、そう言いながら、私を二階の第四展示室に案内した。そこは一枚の絵も飾られていない空室であった。
 「この部屋をあなたの記念室としたいので、あなたのコレクションを寄贈していただけないでしょうか。」唐突も唐突、それを真剣に言われた。私は何の疑いもなくそれを真剣にきいたのだから、ご縁という外ない。私はその時即座に、これまで三十年以上にわたって収集してきた作品を光州市立美術館に寄贈しようと、一人心に決めてしまった。心が決まれば、話は早い。「今日は返事は出来ませんが、一ケ月後日本の私の家に来て下さい。その時ご返事致しましょう。」
日本に帰って、私は心に決めたことを始めた。寄贈する作品の選定、資料・書類の整理作成と一ケ月もの間、作業に没頭した。
七月三日、光州から車美術館長のほか、曹光泳展示課長・呉画伯・林柄星美術館運営諮問委員長が私の家に見えられた。            焔
 「在日同胞作家六名の作品二百十二点を寄贈します。五十点ずつ年に四サイクルにして展示できる点数です。これは在日同胞の歴史、文化の証です。三十年間かけて集めた動機は、私の故郷田沢湖畔に美術館が出来たら寄贈しようと考えたからです。父母の故郷光州市に、市が必要とする時に寄贈できることは大へん光栄です。この時期に声をかけ、このような機会を与えて下さった光州市に感謝します。」と、私は寄贈書類にサインをした。
 思いがけぬ進展、私の申し出に一同びっくり、涙を流して私の手を固く握りしめた。一度に緊張が解けて、安堵の色が一人一人の顔にうかんだ。「いや、実は返事が貰えるかどうか心配して来たのですが、万が一できたとして五十点くらい寄贈していただければとかすかな希望をもって日本へ来たのです。」と肩の荷をおろした様子。一ぺんに顔色が晴れた館長を見て、私はうれしくなった。
七月二一日、光州市役所において寄贈式、そして記者会見が行なわれた。寄贈書には、寄贈目的は「光州市民と韓国美術文化発展に寄与するため」、寄贈条件は「光州市立美術館二層第四展示室(一〇八坪)へ永久常設交換展示する。二層第四展示室を寄贈者の記念館とする」、また「寄贈者は寄贈作品の他に本人の所蔵作品を展示することが出来る」と明記され、公式に発表された。



 一九九五年八月七日、光州広域市長より書留郵便が届いた。氏名の署名が記されていない公文で、私は少しいぶかった。
 こんにちは、いつも我が光州市の発展に物心両面で支援して下さっていることに対し、まことに感謝しております。ご存じのように我が光州広域市では、来る九月二〇日から二ケ月間、第一回光州ビエンナーレが開催され、これは我が光州が世界の芸郷として伸びていくための全市民の期待をこめて創設した国際美術行事です。
 第一回光州ビエンナーレは「境界を越えて」という主題下で、六〇ケ国、五〇〇余名が参加する国際現代美術展と特別展・記念展・後援展と共に、六〇余ケ国、一二〇〇〇余名が参加する祝祭行事をおりこんだ文化芸術オリンピックとして、我が光州が国際化していくよい機会になるだろうと思います。
市では、成功的開催のため、展示館確保、予算支援、交通・宿泊・飲食・環境など支援業務推進に万全を尽くしていますが、限られた財源と差し迫った日程で大規模の行事を行なうには、各界各層の積極的な協力が必要な時であると思います。
 すでにビエンナーレ開幕四〇余日をむかえた今、当面の主要問題項目のうちの一つが展示館確保なのですが、ビエンナーレの成功的開催のために建設中の新築展示館と共に市立美術館、市内私設美術館など既存のほとんどすべての展示施設を活用するよう計画されています。
特に市立美術館を中心として企画されている「証人としての芸術」、「光州五月精神展」など特別展は、市立美術館を活用する以外の代案がない実情で、今の常設展示館を暫定的にビエンナーレ展示空間として活用するには、先生の広い理解と協力がぜひとも必要な実情にあります。長い歴史と伝統を誇る芸郷光州で、ビエンナーレと共に郷土美術館の常設展示物を世界の人々に見せることも意義があるという一部の意見もありますが、大多数の方々の意見は、国際展の展示構成及び空間確保上、国内外有数美術館での先例通り了解いただかなければならない事項として、共感しております。難しい状況の中で国際行事をすすめていくという点を充分に理解していただき、芸郷光州の発展の一翼を担当していただくという大きな意味として、ビエンナーレ期間の間、市立美術館二階常設展示室を使用することが出来るよう協力していただきたく思います。

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