◇光州への旅立ち◇

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「芸術の都市′州に世界的規模の国際ビエンナーレが創設」との新聞報道を見たのは元旦であった。そのときお年玉を頂いたような気持になった。

正式名称は、第一回光州ビエンナーレ。

 「今年が光復五十周年を迎える意義深い年に加え、国際美術の年を兼ねており、これを機にビエンナーレ創設を進める。音楽・舞踊・演劇などすべての芸術部門を参加させ、多彩な美術イベントを計画する」と説明されていた。
わたしは、この報道を読んで、心踊る思いで七日には世界の中の芸術の都′州に旅立った。
実は、昨年九月母方の従弟より、霊岩にある祖父の碑石を建立する日は一月九日に決まったと連絡があったからだ。
折しもわらび座の茶谷十六君が、暁烏敏賞受賞記念に、「その賞金でもう一度ゆっくり韓国を訪問したい。出来れば河さんの父母の故郷霊岩に行ってみたい」と熱い想いを聞かされた。それではこの機会に、碑石建立に立ち会ってもらい韓国を共に旅しようと決めていた。母と三人の、昨年来の計画通りの旅立ちとなった。
光州に向かう飛行機の中で、初めてわらび座光州ビエンナーレ公演実現の可能性を探ってみようと茶谷君に私の野望を唐突に打ち明けた。その時の茶谷君の仰天した顔は、忘れられない。「本気かよ」と、グリグリした眼が定まらず忙しかった。
というのは、七月にソウルの芸術の殿堂で開かれる「アジアダンスフェスティバル」に日本代表として戦後初めての韓国公演が昨年から決まっており、わらび座はその公演の成功を期し準備していたからだ。
「それはすばらしいアイデア。しかし、ソウル公演のあとすぐにサンパウロ公演、財政的にも一年に三回も海外公演が出来るだろうか。スケジュールも今では無理ではないだろうか」と懐疑的であった。
私は、姜雲太光州広域市長を訪問し、光州ビエンナーレの計画とビジョンを聞いた。その構想の遠大さに圧倒され、熱い血が騒ぎうれしさを抑えることが出来なかった。しかしその時は計画発表だけで、テーマや宣言文もなく組織委員会もまだ組織されておらず、三月には概要が発表されるだろうとのことで、本当に九月に開催されるのだろうかと面くらってしまった。



ラグーン(潟湖)の上に浮かぶ海でも陸地でもないベネチアの街に、二年に一度の美術のオリンピックが開かれて今年が百年。カステッロ公園内の主会場には、各国の芸術家が自分の国のパビリオンを使って自由な作品を展示し、芸術に国境がないことを、ベネチア・ビエンナーレのユニークさを印象づけている。あとひとつサンパウロ・ビエンナーレが有名である。ちなみにビエンナーレとは、隔年ごとというイタリー語を語源とする。 
光州ビエンナーレは東アジアでは初めての大規模な国際美術隔年展となるのである。
韓国全羅南道の首都、光州広域市は、父母の故郷で私の第二の故郷である。人口百三十万人の韓国第四の地方を代表する大都市。個性的で発展めざましい芸郷の街である。歌謡と演劇を兼ね備えた伝統芸術、庶民の恨(ハン)を表現したパンソリ=B中国・日本の精神世界に通ずる南宋画(文人画)≠ゥらは、古来より傑出した芸術家を多く世に送り出している。文化と芸術を愛する文化的土壌と市民意識が溢れている韓国を代表する文化都市である。そして義郷。この地の熱い民主の気風は、歴史的に証明されている事実である。世界が共感と連帯感で結ばれ、八〇年代、韓国現代史の激動期を乗り越えた韓国民主化の聖地、民主の都市。また、食の都市、グルメの都市ともいわれている。
韓国のことわざに倉から仁心が生まれる≠ニいう言葉がある。裕福な仁心が全ての人々を心から慈しみ、接待するという素朴な愛郷でもある。
光州市は、気高く聳え立つ無等山の雄大な姿を仰ぎ見ることが出来る。人口一〇〇万以上の大都市で一〇〇〇メートル以上の山が市内にあるのは、世界で唯一つである。「無等」とは、形状、性質、状態、程度、数値などを対比して同じでないことをいう。同じでないことに価値をおき、それぞれの違い、おのおのの個性を尊ぶのである。湖南(全羅南道地方のこと)の人びとは、この無等を愛し、日々努力、進歩の底力にしてきたのだと私は思う。そしてこの等しからざる山の容姿を故郷の心の山として誇り高く思い、ピッコール・クァンジュ(光の街光州)の精神的よりどころにしてきたのである。
我々の故郷光州が掘りおこし、築き上げてきた伝統を土台として、新しい時代を受け入れながら、伝統を継承しつつ、新しい時代と文化を受け入れる器になろうという希望をもって出発することがまさに光州ビエンナーレなのだ。と私は、世界に向って光州ビエンナーレ開催を発信した光州の英知と先見をわが矜持とした。



国立公園月出山九龍峯を望む山裾に母方の祖父が眠っている。母が三歳の時に亡くなった祖父である。母は父の顔を知らずに育ち、日本で私を生み、生涯の願いとして亡き父の碑石を建てることが夢であった。人生最大の孝養と至福は先祖の碑石を建てること。一月九日、母、七十二年目の満願の日を迎えた。「あぁ幸せだ。いつ死んでも思い残すことはない」と九龍の峯々に合掌した母のシルエットが仏さまの姿のように浮んで見えた。言うに言われぬ絵を見るような姿。今も瞼に焼きついた美しい姿だ。

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