◇呉永石先生哀悼◇
(オ・ヨンソク)
呉永石先生哀悼 1984年10月、上野の森美術館に於いて郭桂晶創作工芸展が開かれた。その展示場に呉永石先生が見えられ「河さん、展示されている郭先生の版画作品全てをコレクションしたいと郭先生にお伝え下さい」と唐突に話された。驚いている私に呉先生は郭桂晶の経歴と作品について質問をされた。 「郭桂晶は天性の素質を持った女流作家です。韓国の伝統工芸の独創美を現代工芸の中に甦らせ、特に李朝民芸の魅力を斬新な着想で表現し、最近は版画の作品をも発表しております。郭桂晶の作品は素朴で韓国民画の美しさを表現し、見る人々に懐かしさと母親のような温かい故郷を思い出させる事でしょう。」と私は郭桂晶の作品世界を紹介した。呉先生は私の話を聞いて何度も涙を拭われた。呉先生が郭桂晶の作品から瞼から消せない故郷への郷愁を感じたに違いないと思った時、私も共感の涙を流した。その時多くは語らなかったが以心伝心、私には呉先生の心が伝わってきた。私はこうして郭桂晶の作品が取り持つ縁で呉永石先生と出会った。 私は青年期、画家になる事を夢見たが叶わず、25才の時から主に在日作家達の美術作品のコレクションを開始した。それらの作品で私が育った秋田県田沢湖畔に、20世紀の不幸のために亡くなられた我が同胞の御霊を慰霊する美術館を建立する計画を立てた。だが、それらのコレクションは縁あって私の父母の故郷である韓国光州市に寄贈する事となった。 その経緯を呉先生に語ると「河さん、私の故郷も光州です。まだ一度も帰った事がないが、河さんの話を聞いていると故郷の事が懐かしく思い出されます。私も河さんと同じ気持ちで在日の作家達の作品をコレクションして美術館を建てる夢を抱いているのです。」と話された時、私は同じ時代に同じ夢を抱いて生きた同志、同郷である出自を知り、また感性と感覚が私と同質の物であると確認し喜んだ。それから私は呉先生に対し、父兄のような親しみと敬意を抱き誇らしく思うようになった。その時私の父は他界して既に10年以上経っていたからかも知れない。 「呉先生、私が故郷の光州に御案内しますから一緒に行きましょう」と私は誘った。しかし先生は「透析の為、人に迷惑をかける事だし、万が一もある。それは叶わぬ事だ。」と話された。「今は医学も進歩して心配ありませんから私に任せて下さい。」と重ねて言うと「私は組織に関わってきた人間だから今は行く事は出来ないのだ。」と毅然と、しかし淋しげに答えられた。私はその時、無慈悲で過酷な世の試練の中にいる呉先生を見ている事が痛まれず、望郷の念を思うと切なかった。私は呉先生が以前に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪問されていた事を知人から聞いていた。呉先生は祖国が統一されるまではと言って律義に節を曲げられず、渡韓を固辞し続けているのだと理解した。南北分断の不条理が、呉先生の悲しみの姿そのものであったように感じられてならなかった。 呉先生のお招きで1985年渋谷校、1987年名古屋校開校式典に郭桂晶先生と共に出席した時、呉永石先生は輝いていらした。郭先生は「呉先生に会うと自分を愛して下さっている事が伝わってきて、こんなに有り難い人はいない。側にいるだけで気持ちが伝わってくるのは何故なのか。生きるという意味と意志をいつも与えてくれる。私の芸術活動と生に力を与えてくれる。」と尊敬の念を深くして言った。 2001年3月31日、急逝の報せを受けた時、私は悲しみの為に涙が溢れ、しばし茫然とした。青山葬儀場での学園葬で郭先生と会った。「どうしてこんなに偉大な人が早く旅立たねばならないのか。世の中はつじつまが合わないものだ。私の絵が呉先生の生に少しでも癒しになったならば私は幸せである。呉先生には感謝している。」と郭先生は涙し、私も共感の涙を流した。 私は2000年第三回光州ビエンナーレを記念して光州市立美術館主催「在日の人権展」を開催した。この企画を進めるにあたって呉先生のコレクションの中から、呉日画伯の作品を2、3点借りたいと申し入れた事がある。その時、快く承諾いただいたのだが、コレクションが都内某所に保管されており、多くの作品の中から捜し出す事は困難である旨を話された。私は時間的な制限もあった為、作品を借りる事を断念せざるを得なかったが、郭先生の作品をも含めた保管されている作品群の事が気になった。私の夢は呉先生のコレクションと私のコレクションとの、交流と公開がされる事を念願していたからだ。呉先生は今後の学園運営の事と共に、このコレクションの行く末に、心残して逝かれたのではないかと思うと無念でならない。 私は呉先生の遺影を見つめ、長男の結婚式に御出席下さった事、呉先生のお嬢様の結婚式に呼ばれた時の事、李恢成学長就任の時の懐かしい思い出を懐古した。呉先生ともっと美術の話や光州への案内がしたかったのに、叶えられず悔しくてならなかった。 遺影で笑顔を浮かべる呉先生が、私に「河さん」と何度も呼びかけて下さっているように感じられ、「呉先生」と私も心の中で何度も応え、哀悼の意を表した。 呉永石遺稿集・呉永石遺稿集刊行委員会(2002.3.29) |