◇伝説の舞姫・崔承喜写真展◇
         (チェ・スンギ)

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「伝説の舞姫・崔承喜写真展」

 光州市立美術館創立十周年記念河正雄コレクション「伝説の舞姫・崔承喜写真展」を開催(会期2002年8月1日〜10月20日)することとなった。

 崔承喜(1911〜1969)は朝鮮が生んだ(植民地時代は日本が生んだと言われていた)世界舞踊史上に咲いた唯一無二の華、東洋の心を踊る新しきルネッサンスをもたらした天才的かつユニークな舞姫である。

崔承喜の名は私の故郷である秋田でも知られており私自身幼い時から誇らしく聞いて育った。それは崔承喜が秋田出身の石井漠の門下で学んだからだ。1939年(私が生まれた年)6月24日に秋田市で渡欧告別公演、翌1940年8月16日には帰朝公演が開かれ、その記憶が秋田の人々に鮮烈に残っていたからだと思う。

 崔承喜の解放(終戦)後にまつわるエピソードは東西の冷戦、韓日、朝日との歴史的な関係により運命を歪められ、悲劇に彩られている。不幸な歴史に翻弄されたその姿は在日に生きる私は共感と哀感を抱かずにはいられない、愛おしき人物の一人である。彼女の名誉のため、誇りのためにも彼女が生きた時代とその足跡を検証してみる必要があると思うのは同時代を生きた我々の名誉のため、誇りのためでもある。

 崔承喜については日本の著名な文士や画家、彫刻家が記したメモリアルが数多く残されている。この写真展にこぎつけるまでの崔承喜に寄せた私の想い「在日」の心の軌跡や動機の一端を綴る。

 今から四十年前(1960年代)のことになるが、私は画家になる青雲の志を抱き絵筆を握っていた。その頃埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の宮町に山水園という焼肉屋が開店し、私はその祝いに招待された。店の造りは韓国風のインテリアでとても凝っていた。店主の林清哲(故人)氏が「河さん、この店には絵が一枚もないので淋しい。何か民族的な雰囲気の絵を描いてもらえないだろうか。」と頼まれた。当時、焼肉店で油絵を飾るというのは珍しく、無名の私に依頼されたのに驚かされた。私はその時、朝鮮画報に載っていた崔承喜の写真から「杖鼓の舞」を描くことを約束した。十号の作品を書き上げたところ、林氏はとても気に入ってくれたようで「五万円の画料を払いたいが開店したばかりなので申し訳ないが三万円で勘弁してくれ。」と言って三万円をくれた。当時の私の月の収入は一万円、まして無名の私には破格の画料であった。これでしっかり勉強して将来名のある画家になれと言う励ましだと受け取り、その心遣いを有り難く思った。それにも増して認められた喜びは私に大きな力を与えた。

 私のコレクションの中には崔承喜を描いた油絵二点と版画がある。私は新大久保駅近くにある「チロル」というカラオケスナックでよく遊んだ。ママは友人であり尊敬する白玉仙さん。十数年前(1980年代後半)のことである。「チロル」店内の壁面に一枚の絵が無造作に掛けられていた。煙草の煙で燻されたのか薄汚れ、照明をを落とした店内ではその絵がよく見えなかった。別に何ら気に留めてなかったものだが、ある時近づいてよく見てみた。チョゴリを着て長鼓を持った上半身の舞姿の絵であった。その絵は十号の油絵で1960年代に私が描いた崔承喜の「杖鼓の舞」と構図(私の絵は全身画)が似通っていた。

「白さん、この絵を譲って下さい。」と申し入れたところ、「ええ、いいわよ」といとも簡単に承諾してくれた。汚れを落としサインを見たところ、ハングルで「キム・チャンドク1967」と記されていた。それは1960年代、私が所属していた文芸同(在日朝鮮文芸芸術家同盟)の美術部長金昌徳(日本名・高橋進 1910〜1983)の崔承喜の「長鼓舞」を描いた作品であったのだ。偶然でなく必然とも言える御縁を強く感じる絵との出会いとなった。

 もう一枚の油絵は宋英玉(1917〜1999)の作品である。晩年、白内障で苦しんでいた宋英玉は娘さんに伴われて我が家をよく訪ねて来た。後年、手術が成功し元気になったと快気の礼にと持参したのが崔承喜の「長鼓舞」(1981年作)の絵であった。その絵は金昌徳の「長鼓舞」の構図に似通っていた。どちらも上半身の長鼓舞を描いたものだが、顔の向きが左右に違うなど微妙に異なる構図であった。崔承喜に想いを寄せ、憧憬の念を持って描かれた作品なのだろう。宋英玉の重く沈静した画風にしては珍しく華やいだ世界であり救われるような作品だった。

 版画は松田黎光(1898〜1941-本名・正雄)の1940年作、「僧舞」と「剣舞」の二図である。鮮展参与となり帝展・文展にも出展し、江西双楹塚(こうせいそうようつか)壁画の模写を成し国民総力朝鮮美術家協会理事であった、鮮展初期以来の作品である。この年代、称賛を浴びていた崔承喜を安井曽太郎、小磯良平、梅原龍三郎、東郷青児、有島生馬、鏑木清方らが競って描いた。黎光も崔承喜をモデルにしてこの作品を制作したものと判断し私はこの絵をコレクションした。

 私はシケイロスと交遊のあった北川民次の絵が好きだった。1998年、私は妻とメキシコ旅行に出掛けた。古代メキシコ文明、アステカ・マヤ文明の遺跡に興味もあったが北川民次の画風に影響を与えたシケイロスの壁画を見たかったからだ。巨匠シケイロスは1913年メキシコ革命に参加した。ヨーロッパの現代美術とメキシコの土俗的な伝統を結合させ国民(民族)的芸術を主張し力強い社会的表現をしたメキシコの画家である。

 メキシコシティのアラメダ公園東端にある国立芸術院を訪ねた。白大理石の建物の外観はネオクラシックとアール・ヌーボー、内部はアール・デコ様式の折衷様式であり1934年に完成したものである。二階と三階の壁面にあるシケイロスの巨大で力強い作品に出会ったときは息を呑むような感動を受けた。そこにはメキシコを代表する世界的な画家、タマヨ、リベラ、オロスコらの作品も展示されており思いもかけぬ作品との出会いを喜んだ。

 案内をしてくれた同院の学芸員に、私は日本から来た韓国人だと挨拶したところ「この建物には3500人収容の劇場がある。1940年には崔承喜の公演があった。」と紹介された。そのとき時空を超え、クラシカルで絢爛たるその劇場で民族の舞を踊っている崔承喜を想い描いただけで熱いものがこみ上げてきた。異郷のメキシコ人が崔承喜を知っていた、忘れないでいてくれたというだけで感激してしまった。メキシコの旅は思いがけず崔承喜の足跡を訪ねる印象深いものとなった。

 1997年文芸協講座(在日韓国人文化芸術協会主催)に崔承喜の研究者、韓国中央大学校名誉教授の鄭モ浩先生をお招きし「崔承喜の芸術と生涯」の講演をして頂いた。このことが御縁となり後日、先生が収集された崔承喜に関するスライドフィルムを拝見する機会を得た。膨大なスライドを見せていただいた後に私は「先生、このフィルムを譲って頂けませんか?私の記念室がある光州市立美術館で崔承喜の足跡をパネルにして展示したい」と申し入れた。しかし先生は関心を持たれなかったのか、そのときは承諾して下さらなかった。

 その後、1999年白香珠の舞踊公演の際に奥様と共に来日したとの連絡があり東京で会うこととなった。そこで「崔承喜の存在と足跡を知らしめたいという河さんの申し入れの意図と主旨がわかった。フィルムのコレクションをあなたに譲りましょう。」と言われた。私は諦め忘れていた事柄が思いもよらず叶ったことに先生の理解に感謝し喜んだ。

 こうして山口卓治氏紹介によるサカタラボステーション株式会社の協賛でそのフィルム資料をパネル作品として製作することが出来た。古い時代の35ミリフィルム(原版からコピ−されたと思われる)からパネル化は困難を極めた。費用も嵩んだが一点一点修正しながらの手作業で最善を尽くしていただいたパネルは良い作品になったと思う。ソウルの演出家鄭秀雄氏は写真を、鄭モ浩先生は写真解説と年譜、そして写真フィルムを寄贈するにあたり、その動機を記した文を寄せて下さった。鄭先生は韓国が1987年に越北芸術家の復権措置が執られる以前から、韓国を代表する崔承喜研究の第一人者である。1995年には秀作「踊る崔承喜」を出版された。長年かかって集められた崔承喜の史料や資料、記事、写真などのコレクションは貴重なもので、その業績が評価されている。崔承喜写真展開催が成されることとなったのは、鄭先生の寛大なるご理解とご指導のおかげである。この紙面を借りて敬意と感謝の意を表する。

 また資料収集にあたり国会図書館総務部長・大滝則忠、アジア資料課の富窪高志、文化センターアリランの幸野保典、秋田さきがけ新報社の佐川博之、舞台芸術プロデューサーの羽月雅人、舞踊家の白洪天ら各氏の御協力ご尽力を頂いた。また友人であるわらび座の茶谷十六氏は愛蔵のプロマイドを多数寄贈して下さった。心から感謝申し上げたい。

 2003年2月9日、朝鮮中央通信が「祖国の光復と富強繁栄のための聖なる偉業に尽くした22人の烈士の遺骸が愛国烈士陵に新たに安置された」としてそれまで粛正説が流れ生死不明であった崔承喜の名を伝えた。崔承喜が北朝鮮で34年ぶりに名誉回復されたのである。最近、一緒に失脚した崔承喜の娘、安聖姫の墓の所在も近い内にはっきりするだろうとの話も出ているようだ。

 芸術はイデオロギーを超える。崔承喜は世界的な芸術家であることを認識することが我々にとって有意義なことである。崔承喜の世界同胞主義を理解し、植民地時代、あの苦しい時代を生きた我々朝鮮人の自尊心を団結させてくれた崔承喜を今日的に再評価するべきであると鄭モ浩先生は熱く語った。崔承喜の芸術的活動の足跡と彼女が生きた時代と民族史を知ることは現在に生きる我々にとっても重要であると思う。崔承喜を知らない若者達に未来に誇りと夢を育む写真展になることを祈念してやまない。

東洋経済日報(2002.8.2)
アプロ21・8月号(2002.8.8)
アリラン通信・No27(2002.7)
光州市立美術館発行「崔承喜展」カタログ(2002.7.30)
光州日報(2002.7.30)



「舞姫・崔承喜写真展」を見て
横江文憲(東京都庭園美術館学芸係長・写真史)

 写真が持つ重要な機能の一つとして「記録性」を挙げることが出来るが、この展覧会ほど、そのことを強く感じたことはなかった。また「伝達」という意味においても、時代を超え時を越えて多くの人々に訴える力を認識させられた。

 韓国の光州市立美術館で今年8月から10月にかけて「舞姫・崔承喜写真展」が開催され、同館名誉館長の河正雄氏に紹介されて見る機会を持った。崔承喜は私にとって、戦前の日本で活躍した世界的な舞踏家であり、著名な画家や写真家がこぞってモデルにして作品を残しているという知識しか持ち合わせず、それまで彼女の写真を見たという記憶はなかった。

 展覧会の会場に足を踏み入れて圧倒された。崔承喜の肉体が宙を舞い、その表現力の容易でないことを瞬間に感得することができた。彼女の均整のとれた肉体、そこから溢れ出る躍動的なリズムは、観る者を彼女の舞踏の世界へ誘う。また、同時に展示されている夥しい数の印刷物やアルバム、油絵等の資料は、1920年代から1960年代に活躍した天才的な舞姫崔承喜を立体的に浮かび上がらせている。

昭和10年頃、崔承喜の人気は絶頂にあり恩師石井漠は、「彼女の一挙手一投足は、通常の人間の2倍の効果をあげることができる。」と言い、川端康成は、「他の誰を日本一というよりも、崔承喜を日本一と云いやすい。第一に立派な体である。彼女の踊りの大きさである。力である。それに踊りざかりの年齢である。また彼女に一人にいちじるしい民族の匂いである。」と書いている。さらにさらに村山知義は、「日本的なるものの母の、母の、その又母のいぶきを感じることが出来た。」と述べている。これらのことだけみても、崔承喜の日本国内における関心の高さを窺い知ることができる。しかし、文字だけでは、想像することはできても実感として伝わってこない。写真は、それを映像として如実に提示することができる。

崔承喜の存在の重要さは、そのことよりも遥かに高い次元にあり、まさに波乱万丈な人生を歩んだことを教えてくれた。
「韓国現代舞踏の先駆者であると日本定刻植民地時代の韓国を代表する舞踏家として世界の舞台で活躍し、国を失った韓国民に慰安と希望とをあたえてくれるとともに、深い祖国愛を呼び起こした舞踏家崔承喜」(※1)「韓国舞踏家として世界的に名声を馳せ、全盛期に北朝鮮へと越境したが最後には粛清されたことにより様々な逸話を残した。」(※2)と書かれているように、韓国に生まれ、日本から羽ばたき、北朝鮮で消息を絶った数奇な運命であったがために、近年まで彼女の研究をすることができなかったのである。

今回の展示は、1988年に越北芸術家たちに対する解禁措置がとられてからの研究成果である。写真フィルムは中央大学校鄭モ浩名誉教授が収集したものであり、展示物の殆どはそれを河正雄名誉館長が形にした。調査研究というレベルでの文化交流は端緒についたばかりであり、今後、日韓両国の重要な課題であろう。

(※1,2は展覧会カタログより)

東洋経済日報(2002.11.22)

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