◇「無意味の意味」郭徳俊展に寄せて◇

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「無意味の意味」郭徳俊展に寄せて
光州市立美術館名誉館長 河正雄


―意味の消去―
 1972年、東京国立近代美術館における第8回国際東京版画ビエンナーレ展にて郭徳俊の作品が、その年のベスト5に選ばれ展示された。有望作家として日本美術界で評価された事を誇りに思い、私は関心を持つようになった。

 1984年、作品をコレクションする目的で、京都で郭徳俊と出会った。その時、エネルギッシュで精悍な風貌に見入っていると「頭を剃ったのは、60年末頃からだ。」と頭をさすりながら何度も話された。

 「22歳の時に結核にかかり3年間の闘病生活をした。隔離された病棟から早く外に出て歩いてみたいという、願いだけであった。回復してからは元気に歩いているだけで幸せ、もう物欲もなくなり、自分にしか出来ない人生の証しとしての好きな絵を、一心にやろうと創作活動を始めた。

 小学2年生の時に終戦を迎えた。朝鮮征伐にいってこいと尻を叩かれたり、身に染みる差別や偏見を子供の頃から大人になるまで体験し、郭という名が嫌で堪らなかった。そんな時代に育ち、今も意味のない事が、ある事として永遠に存在している。それを作品として表現したい。だからこの世に絶対的なものなどない。意味の消去、これが僕の考える世界だ。

 韓国では日本人作家、そして日本では韓国人作家と紹介されるが、他人も自分も人間が良く見える様になった。」と在日の出自を苦痛の感情を高揚させ語られた。

―出会いとコレクション―
 「深夜、ホテルでの貴重な会話に深く感銘し、現代美術と社会、民族の関係が社会に対し諦めの心境での日常、毎日でしたが、出会うべき人に出会ったという感動に近い心境です。」(1984年2月22日付)

 また、私が秋田県田沢湖畔に建立を計画していた「祈りの美術館」計画には「美術館の図は私の予想以上でした。意図、目的の構想の雄大さに人生価値の重みを見る思いです。民族の底力を大地に叩きつけるインパクトを感じます。」(1984年5月10日付)と後日、書簡にて私との出会いと美術館計画を喜んで下さり光栄に思った。

 その出会いが縁で初めてコレクションしたのが《EVENT・RELATION−行為・一貫性》の版画作品4点で、これらの作品は国際東京版画ビエンナーレの文部大臣賞受賞作であった。

 「私が10年間、健康を維持する事が出来たら、私の意図する事が完結するでしょう。

現代美術は30代で死しても、作品が評価されるという事はありません。多くの作品を創作し、長生きしなければ全作品の評価はありません。私は大きな器の土台は出来ましたが、総花させなければなりません。
それはコレクションしていただいている作品を、高い次元に位置づける事を意味し、期待に対する私の姿勢だと自認します。」(1986年7月28日付)

―封印された作品―
私はそれから数度、京都のアトリエを訪問しては多数の作品を見せて頂いたが、その中で私が注目したのは60年代後半の作品群であった。

胡粉と石膏を接着剤で固め、釘で引っ掻いた陶器の様な、凹凸の絵肌の独自な作品であった。在日のアイデンティティ、時代を証言するメッセージを私は強く感じたからだ。

私は訪問する度毎にこれらの作品を、コレクションに加えたいと願望したが「これは無名時代の物で今出せる物ではない。」と言って断られた。在日という狭間を生き、時代と向き合った、魂が叫んでいるかの様なインパクトある作品群であった。

郭徳俊は1988年になって、64年から69年までの30年間封印されていたそれらの作品を発表、「郭徳俊の絵画 もう一つの60年代展」を開催された。郭徳俊は芸術家には時代の証言者たる理念が必要だと言い、その展覧は60年代を生きた郭徳俊の信念を見る自画像展の様であった。

封印を解かれ発表された作品は少しも色褪せてなどいなかった。風化などしていなかった。時が止まっていたかの様に、郭徳俊の心の闇が表出しており、今日性をアピールしていた。

また郭徳俊は過去と現在の間の自己表現として「風化」シリーズを発表している。人間はその時その時に理想や理念に引きずり回され、その思いが燃えていても時間が経過すると共に風化する。10年後にはどう見られているのか、虚しいものであると語った。

―自己存在の証し―
 郭徳俊は1937年京都に生まれた在日韓国人二世である。現代美術の分野において独創的な活動を展開し、日本の戦後美術の歴史に重要な足跡を残している。その領域的な展開は「変わった事をするとエネルギーが出る。20代の大病(結核)で物欲が消え、そこから新たな世界観を持った。」のだという。

彼の作業は立体、映像、版画、身体的な行為、絵画など幅広いジャンルに及んでいる。70年代で代表的なものは〈反復〉シリーズである。その先駆性は70年代という時代が持つ性格、流れを反映している。

1979年以降には〈記録〉シリーズに入る。自己と社会の関係を、鋭く見つめた絵画や写真と、ユーモラスな詩情に溢れた、色彩豊かな絵画をダイナミックに結びつけ、先鋭的な絵画を発表している。私のコレクションは作品の流れに添って随時進められ充実していった。

社会批評と風刺、諧謔的な表現は、洒脱でもあると思う。在日という「狭間」を生き、時代と向き合い、戦後日本美術において果たしてきた役割は大きい。

日本の現代美術の流れと強く関わり合いながらも一線を画し、日本を拠点に特異な位置を保って、世界に雄飛しているアーティストである。

「頭で考えるだけでなく、身体性と実存性が重要である。生身の瞬間が大切である。過去と現在の内なる自己表現、自己の実存の証しを、自分にしか出来ないものを表現したい。」と自己の原点を把握認識した、彼の言霊が響く。

―禅問答―
彼に作品の説明を求めると、「説明は不可能」と禅問答のように返してくる。それは深い意味を含み、観念的、直感的なものである為なのか。世を捨てたような、開き直り世を忍ぶ境地を私は感じる。

そう感じるのは、時代を共にした在日二世の私の感懐、感傷であるのか、それとも戦前戦後を韓日の狭間の中で生きた境涯の違いから来るものなのか。戯画化された人物を登場させた「無意味」シリーズの、「無意味」の意味こそ意味深である。

美術評論家・建畠哲はこう述べている。「彼は様々な光景の中を旅しながら、"ハテハテ、サテサテ、無意味、無意味"と呟いて状況から距離を置いた他者の態度を取り続ける。興味はあるけど、関わるのはごめんだよとでもいう様に。でも尚、彼の旅は虚無的な絶望の旅ではない筈だ。批評の眼は醒めてはいるが、その皮肉な視線の裏側で、本当は作者は私達の住むかけがえのない世界を優しくいとおしんでいるのではないだろうか。」

「無意味」の作品に郭徳俊の文がある。「どの作品にも出て来る帽子を被り鞄を持ったシルエットの人物は僕の分身。どんな時代の変化にも横目にサッサと歩いて行く。」

また「生、死、くり返しやってくる、一日の世界を体験して、受け止める事に留意する事。反復作用を重ねる事によって、日常性を拒絶する事。

無意味なものを意味化せず、事実を確認する事。そして、そこから表出した非日常性の異質性を際立たせる事に関心を抱く事。

それはとりもなおさず、自己存在に持続出来る唯一の行為につながるであろうから…」という文である

―「無意味」とは無常―
郭徳俊のいう「無意味」とは彼の死生観なのだろうか。それとも芸術感なのであろうか。実に難解であるが重い示唆が含まれている。人生に意味など求めてはならない。元々、意味などないのだ。ただ楽しく幸せに生きていけばいいのだという言葉もある。いや人生には意味があるのだ、意味が無ければ生きがいはないのだと受け取れる。

私は在日文化芸術協会の第3代会長(在任:1996年〜2001年)に就任した事で郭徳俊に協会の通信を送っていた。

ところが2000年2月13日、「先日は貴重な刊行物をありがとうございました。正しく貴兄は人生の勝利者です。生ある限り前進して下さい。私は第1回在日韓国人文化芸術協会(初代会長:麗羅氏)に入金(公式賛否)の交信を受けましたが拒否返信致しました。

1965年より郭徳俊芸術人は一生無所属で孤立で生を終えるとの信念で生きております。よろしくお願いします。」との葉書が届いた。以降、郵便物は返送されて来た。そして音信が途絶えた。

2007年8月7日、京都国立近代美術館にて「文承根+八木正 1973−83の仕事」展が開催された。第5回2004年光州ビエンナーレ記念として、光州市立美術館に於ける河正雄コレクション「文承根展」を見られた、京都国立近代美術館の河本信治学芸課長が、京都出身の文承根の画業に照明を当てたものである。

その開幕式に郭徳俊が見えられた。久しぶりに会った喜びで、私は握手を求めたところ、「汗で汚れている」からと言って、握ってくれなかった。

この度、光州市立美術館主催河正雄コレクション「郭徳俊展」(会期:2012年3月6日〜7月15日)が開催される事となった。

晩節に訪れる春には、格別なる人生の意味がある。歳月は無言で過ぎ去って行ったが「無意味」とは「無常」の事なのだとも思う。しかし確かな事は「絆」と「心」で結ばれた、風化せぬ「友情」と「友愛」の展覧会となる事であろうと思う。

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