◇高三権「一道」展によせて◇

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高三権「一道」展によせて
光州市立美術館名誉館長 河正雄

―雪の振る夜―

 関東地方は年末にかけて3ヶ月もカラカラな天気が続いたが先日、天の恵みで雪となった。数年ぶりの大雪である。人々は新春の初雪を吉兆の報と喜ぶ。何故か私は雪の降る夜は無性に故郷に心が回帰して行く。

 雪深い秋田の故郷の学友や、恩師達の懐かしい顔が次々と現れてくる。元気であろうか、どうしているだろうか、と懐かしさがこみ上げてくる。走馬燈の様に幼少期、青春時代が追想されたり感傷的にもなる。故郷での思い出は温もりとなって私を包む。

 中学3年間を担任して下さった松本正典(まつもとしょうすけ)先生が、その夜、瞼に浮かんだ。卒業の日、先生の最後の別れの言葉が甦る。

 「君達が社会に出たら荒波に晒されるであろう。そんな時友達がいたら、その友達が支え、力になるであろう。人生を全うする迄に、誇れる真の友が一人でもいたら人生の成功者といえるであろう。」「誇れる友は一生かかっても、なかなか掴めないものだ。友は作ろうとして出来るものではない。神仏から恵み、与えられるものだ。」とも言われた。

―善友・悪友―
 その深い意味を繰り返し噛み締めながら73年の人生を生きて来た。助けてくれる人。苦楽を共にしてくれる人。人の為を思って話してくれる人。導き激励、敬意を表してくれる善友がいた。

何かと理屈をこねて物をせしめていく人。言葉ばかりで調子の良い事ばかり言う人。遊び仲間とする人。常に友人関係が壊れない様にと気を使い、調子の良い事ばかり語りながら、心の中では友の欠点ばかり気にしている人。そんな見せかけだけの悪友もいた。

形式や外見ではなく共に歩もう、前進しようという連帯こそが真の友情である。人間性そのものが人格であり、友を見れば判るものだという結論に私は至っている。

誇れる友、神仏から与えられる友、真の友を得るには本当に苦労し、自分自身の人間性と人格を身に付ける修錬が先決である。口先だけではなく、本当に苦労し自分が犠牲となっていく精神こそが本物であると私は悟っている。

―生まれし大阪―
 私が高三権の作品と足跡に興味を持った経緯を語るには私の境涯を語らなければならない。

 私の生誕地は東大阪市(旧布施市)森河内である。その地には、私が生まれ生活した長屋が今も現存している。少年時代、祭りのだんじりを引いて流した路地、八幡神社も変わっていなかった。終戦間際に長屋の裏にあった溜め池にB29から爆弾が落とされたが不発に終わった。その為、長屋は傾いたが私達の命は助かった。今はその痕跡は埋められ、建売住宅が密集していた。

長屋には朝鮮人家族が数組住んでいた。その人々は戦後、日本各地に移り住んでいった。私の家族も、ここから秋田に移住したのだ。ここが私のルーツかと思ったら無性に涙がこみ上げてくるのは、ただの感傷ではない。  猪狩野、布施、鶴橋と廻った。

路地一帯が朝鮮人の家屋で密集していたが、どこか静まり返っている。当時の活気や生活感が薄く感じられた。日本の町並みのように同化して見えた。

 1947年、私は布施朝連初等学校の第1期生として入学した。間もなく、民族学校弾圧の嵐が吹いて、授業どころか連日、警察に追われる学校生活を味わった。私はその跡地に立ってみて、その時代の狂騒が幻のように思えた。

 京橋駅頭に太平洋戦争犠牲者の慰霊碑が建っていたのでお参りした。終戦間近、B29の襲来で何万もの犠牲者の出たところが、この京橋付近である。

私が住んでいた放出(はなてん)からすぐ近くのところ、当時父が京橋片町のガラス工場で働いていたので、幼かった私が父に弁当を届けに何度か行ったことをその京橋で思い出した。  その日は8月14日、旧の送り盆で、京橋川の川辺りでは供物と霊に捧げる数々の品々が小舟に山と積まれ、線香の煙が付近を充満し、参拝の人並みが溢れていた。

―下関から秋田へ―  
下関は関釜連絡船の玄関口である。私は妹と母と共に4歳の時に、霊岩から栄山浦の港で伝幡船に乗り、麗水で船に乗り換えて下関に着いた。

関釜連絡船岸壁から長い連絡通路を進むと下関駅がある。記憶にある下関駅は最近まで現存していた。当時新築されたばかりの下関駅は、今は文化財の指定を受けてもよいほどに古くなって郷愁を感じる良い建物だ。駅の雑踏はなく私の記憶によると余りに寂しく、裏さびれていた。

私がこの駅に降り立った時に感じた人々の活気や息遣い、喧騒をもはやそこに感じるものはなかった。しかし残念ながら、私の訪ねた翌年、酒酔いの心無い放火の為に下関駅は焼失してしまった。  記憶を辿って長門町、竹崎町と歩いてみた。そして円通寺に参った。

今は街にも昔の名残がなかったが、在日同胞の韓国食材を売る店があったので入った。そこの主人の案内で丘になっている神田町の朝鮮人部落を訪ねることとした。

下関には糞(トンコル)の街と言われた朝鮮人部落が市内に何カ所かあった。神田町は今も当時そのままの営みが残っている所である。私の家族もこの部落のどこかに滞在し、父のいる秋田へ向かう前の一時のねぐらとした所である。

―青春の岐路―
私は1959年3月7日、秋田工業高校の卒業式を終えたその日の上野行きの夜行列車に乗って上京した。卒業証書と身の回りの物を入れた通学鞄1つが私の所持品だった。画家になる夢を抱えて、秋田での18年間の生活に別れを告げた。

目黒の柿の木坂に下宿し、武蔵小山にある明工社という配線機器製造メーカーに日当260円で務めた。昼は配線器具の設計の仕事をして、夜は代々木にある日本デザインスクールに通い商工業デザイン、バウハウスの理論の勉強をした。

数ヶ月後に川口の芝川沿いにマッチ箱のような家を購入して、そこから明工社に通った。朝5時半には家を出て帰宅は夜の10時半過ぎであった。そんな頃に゙良奎が「日本の友よ、さようなら」と言って北朝鮮に帰国した。

1960年10月7日に新潟から北朝鮮に渡った事を報道で知った。その年の12月、私は目を痛めてしまい、3ヶ月ほど入院し盲目での生活を余儀なくされた。過労と栄養失調から来る障害であったのだが回復することが出来た。その事で会社も学校も辞めざるを得なくなってしまう。

1961年9月には台風の水害により我が家は水没した。その時川口の朝鮮総連の人達がボートに乗って慰問に現れ、お米を配給してくれた。その人達から北朝鮮は天国のような所であるという事を聞いた。行き場を無くし悶々としていた時であったので、私も゙良奎のように北朝鮮に行き絵の勉強をしようと総連事務所に行った。

しかし「君は少し北に行くのは保留して、この総連事務所の仕事をしてもらいたい。」と慰留され、そこへ務めることとなった。今考えると私の人生の大きな岐路になるのだが、その頃の私には何も判ろう筈もない。しばらくして画家の許勲氏が事務所に私を訪ねてきた。在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)に入らないかと誘った。私は文芸同に入会したことで在日同胞作家と美術世界を知る接点が出来た。この出会いが在日同胞作家作品コレクションのルーツである。

それから3年程して家電店を経営する事となり、事業の都合で総連事務所を辞め、文芸同も自然退会となり50年の歳月が経過した。

―高三権画伯との出会い―
2009年10月の事である。第3回2000年光州ビエンナーレの出品作品作家であった在日朝鮮文学文学芸術同盟(文芸同)常任委員会李繻M美術部長から文芸同結成50周年記念展示展を開くにあたり出品依頼があった。

私は宋英玉1970年作「鳩」、全和凰1973年作「弥勒菩薩」を出品した。その展示会場には、当時知り合った許勲氏や諸先輩達の作品、そしで良奎、金昌徳、呉林俊、呉日など私がコレクションした作家達の作品も多数、出品されていた。その会場には50年前の時空がそのまま息づいており、タイムスリップした夢幻の世界に入り込んでしまった様な心地であった。

「在日朝鮮人美術運動の基礎を築いた美術家達の業績を振り返り、植民地時代に日本に渡り困窮の中でも故郷の風景を思い、日本で力強く生きる在日朝鮮人同胞を見つめ朝鮮半島の平和を願いながら、美術を自らの表現手段とした在日朝鮮人1世、2世の美術作品とその人生を紹介します。」と入口に展示会の意義が表示されていた。

全体に重く沈痛な作品の多い会場で高三権の作品が目に入った。黄土の色調、淡いパステル調の趣き、洗練された筆致、墨画の様な東洋画の情緒を表出した温かな感受性、民族の精神性を強く感じる作風であった。

経歴を見ると、私と同じく1939年大阪生まれ。1962年日本アンデパンダ展出品とあった。私は1963年、第16回日本アンデパンダ展に出品した経歴があった。その時、高三権も「ビラ貼り活動」いう作品を出品していたのだ。

文芸同への入会も私よりも2年早い1960年、先輩である事が判った。50年ぶりに高三権の絵との出会いから浅からぬ御縁を確認する事となった。

―光州との出会い―
 高三権は1983年から1985年、パリでのサン・ド・トンヌ展パリ・ソシエテ・ナジオナル・デ・ボザール展出品、李應魯画伯との個展開催の経歴がある。李應魯画伯の招請によるものであった。

李應魯日本展開催(1985年10月29日〜11月9日 神奈川県立県民ギャラリー・同年11月12日〜22日 東京銀座ギャラリーさんよう)を高三権がコーディネイトした。その時、高三権の人柄と画歴が認められたのだ。李應魯画伯は海外同胞達が繰り広げた韓国民主化運動の象徴的存在であった。

私のコレクションの中に富山妙子の「倒れた者への祈祷・1980年5月光州」という版画シリーズがある。

1982年、パリに住む李應魯画伯が富山妙子を招待し展覧会を開いた。「1967年からの3年間をソウルの獄中の中で過ごした事は、私にとって人生の学校でした。ただ絵を描く事しか知らなかった私にとって、それは遅ればせながらの覚醒であり、内面に芽生えた息吹でした。

そして光州事件以後、人々に訴える事の出来る抗争的な画風に変わったのです。私の作品『民衆』は、光州の人々を限りなく考えて描いたものなのです。いつか光州に行き、あなたと共に展覧会を開くときが来れば良いですね…」と光州に言及する言葉を残し、1989年、李應魯画伯は再び故国の土を踏む事無く亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に眠っている。

民主化された韓国の1995年、第1回光州ビエンナーレで李應魯画伯と富山妙子の作品が対面し展示された。木は伐られたが、その根から新しい息吹が生まれ変わった光州での出会いとなった。

―高三権「一道」展―
私は後に出品作「祝日」「休息」各100号の油彩作品2点を河正雄コレクションとして収集したのだが、その時に高三権より「光州で個展をやりたいので力になって欲しい。」と申し入れられた。

「光州市立美術館には私の記念室があるので可能性がある。」と返事した所、「私の故郷済州道でも出来ないだろうか?」と話された。「私のコレクションが入っている釜山市立美術館や太田市立美術館、霊岩郡立河美術館ならリンクして巡回展が可能であろうと思う。」と答えた所、「是非お願いします。韓国での個展が夢でした。」という返事をいただき、話はトントン拍子で進んだ。

いとも簡単に安請け合いをしたものだと思われる方も居られるかもしれない。実はその時、松本先生の「友」の言葉がよぎったのである。

2009年2月9日、私は大田市立美術館に美術作品を寄贈した。その時、李應魯記念美術館がある事を知った。私は高三権、富山妙子、光州との因縁深い関係から李應魯記念美術館での高三権展を企画提案したのである。

具体化には紆余曲折があり簡単な事業ではなかった。何せ韓国の美術界では初めての企画巡回展であるからだ。

私と高三権の境涯は違えども、同時代を在日2世として在日の美術界を夢を捨てずに生きてきた事への共感から、晩節を飾り在日の存在を賭けるだけの意味ある事業だと認識したのである。
私は使命を抱いて、友の希望を叶えてやろうと純粋に卆直に受けたのであるが、実現の為には各美術館の理解と心があったからである。

高三権「一道」展は友情の心展として花が開く事であろう。お互いに引き合った人間力による素敵な出会い、人生の妙味である。生きる意味と存在の価値を感じ喜びに耐えない
その夜、新雪は音もなく降りしきっていた。こんな夜は眠りに就くなんて惜しい。過ぎ去った人生を追憶し、夜明けまで至福の時間を過ごした。

戸を開けたら、眩しい白銀の世界が目に飛び込んで来た。そして清新の霊気が心身を引き締めてくれた。




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