◇「在日作家 呉日」◇

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天国と地獄とその中間の絵画

光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校美術学名誉博士
河正雄

<呉日との接点>

 光州市立美術館主催による5.18光州民衆抗争(光州事件)25周年記念河正雄コレクション「在日作家 呉日展」が2005年5月開催される。まず呉日の作品56点がコレクションされた経緯と私との接点(縁)を語らねばならない。呉日は広島で、私は大阪で1939年に、この日本で生を受けたことから始まる。それからの人生においてもいくつかの共通点を見出すことが出来る。
 幼少の頃、一時期それぞれ、韓国の故郷に帰って生活していること。1960年代になって、それぞれ在日本朝鮮文化芸術家同盟(略称・文芸同)美術部会員となり、日本アンデパンダン展に共に出品したことがあること。私が尊敬する宋英玉(1917〜1999)は呉日の先輩でもあり、友人でもあったこと。1995年第1回光州ビエンナーレが開催されたが、光州市立美術館河正雄記念室では「光州の5月精神展」が開かれた。その時、私の記念室で宋英玉と呉日の作品が展示され、後日その作品は河正雄コレクションとして収蔵したことなど。

<呉永石先生との出会い>

 しかし決定的な接点は、呉日の支援者であり、在日画家のコレクターであった呉永石先生との出会いである。
 呉永石先生の経歴を紹介する。1936年東京生まれの大阪育ち。上京し1965年、日本デザイナー学院創立。1966年日本写真専門学院創立、1969年日本ビジネススクール創立、1977年学校法人呉学院創立。1986年米国セントラルメソジスト大学名誉博士号授受、1996年東京都〈学校教育功労者〉表彰を受けている。徒手空拳で学園を創立し、30年に渡り週2回の人工透析と聴力の喪失というハンデを負いながら、1にも情熱、2にも情熱、チャレンジ精神の経営哲学で学園を築き、発展させた教育事業家である。在日の文化芸術人達の支援、育成にも尽力され、長年美術館の創設を夢見たが未完成として2001年に旅立たれた。
 1984年10月、上野の森美術館に於いて〈郭桂晶創作工芸展〉が開かれた。その展示場に呉永石先生が見えられた。その時、「私は青年期、画家になる事を夢見たが叶わず、二十五才の時から主に在日作家達の美術作品のコレクションを開始した。それらの作品で私が育った秋田県田沢湖畔に、二十世紀の不幸のために亡くなられた我が同胞の御霊を慰霊する美術館を建立する計画を立てた。だが、それらのコレクションは縁あって私の父母の故郷である韓国光州市に全て寄贈する事となった。」とその経緯を呉先生に語った。「河さん、私の故郷も光州です。まだ一度も帰った事がないが、河さんの話を聞いていると故郷の事が懐かしく思い出されます。私も河さんと同じ気持ちで在日の作家達の作品をコレクションして美術館を建てる夢を抱いているのです。」と話された時、私は同じ時代に同じ夢を抱いて生き、また同郷である出自を知り、また感性と感覚が私と同質の物である事を喜び親しみを感じた。
 「呉先生、私が故郷の光州に御案内しますからいつか一緒に行きましょう」と私は誘った。しかし先生は「週2回の透析の為、人に迷惑をかける事だし、万が一もある。それは叶わぬ事だ。」と話された。「今は韓国の医学も進歩して心配ありませんから私に任せて下さい。」と重ねて言うと「私は組織に関わってきた人間だから今は南の韓国に行く事は出来ないのだ。」と毅然と、しかし淋しげに答えられた。その時、呉先生の望郷の念を思うと切なかった。私は二〇〇〇年第三回光州ビエンナーレを記念して光州市立美術館にて「在日の人権展」を開催した。この企画を進めるにあたって呉先生のコレクションの中から呉日画伯の作品を二、三点借りたいと申し入れた事がある。その時、快く承諾いただいたのだが、多くのコレクションの中から捜し出す事は困難である旨を話され、作品を借りる事を断念した経緯があった。
 翌年、呉永石先生が急逝(享年65歳)された。早逝の報せは衝撃であり、無念であった。2004年3月呉永順氏(呉永石先生の妹)より便りがあった。「学校法人呉学園理事長・故呉永石のコレクションとして残された、呉日の作品を河正雄コレクションとして寄贈したい」との内容であった。そして6月になって伊豆の別荘に保管されていたという51点の作品が私のもとに届いた。寄贈を受けた呉日の作品は、美術館の夢を果たせなかった心残りを、河正雄コレクションとして光州市立美術館に託されたものではないかと思う。
 「いつの日にか、呉日先生の作品展を開催する機会を作りたい。そして呉永石先生の望郷(光州への里帰り)の思いを叶えたい。」と感謝の言葉を私は述べた。その時、呉永順氏は伊豆高原の別荘を呉永石記念館として開館すると話され晩秋になってその案内が届いた。

<呉日は何故画家になったか>

 1996年、呉日が我が家を訪問された。その時、呉日は何故画家になったのかと述懐した。
12歳の頃から家庭の事情で放浪(炭坑や染物屋、パチンコ店、皿洗いなど)しながら生きるために下積みで働いた。だから学校と言えば小学校にしか行ったことはなかった。(釜山草梁国民学校に呉日布の名で通い6年生で中退)余りの厳しさと辛い思いだったので同じ苦労するなら絵描きになろうと決心して、通信で漫画を学んだ。19歳の時、画家になるために上京してからが大変だったが38年の歳月が流れた。画家になると言う夢は実現したものの、それは決して楽な道ではなく、険しい道のりであった。生きることは闘いであり、人間とは何のために生きているのか?という悩みは、人間は生活するために生きているのだという意味に到達するまでに長い歳月を必要とした。人間の幸せとは何か、青い鳥はどこにいるのかと探し求めた1つの到達点である。
「私にとっての生の証明をし、これからも、一生絵を描き続け全う出来れば本望である。絵を描くのは、苦しみがつきものだが、また喜びも、生き甲斐も感じる。芸術は表現の世界だが終わりがない。無限だ。ここのところ、芸術は不毛の時代という。だが人間が存在してある限り、永遠に続くであろう。人間は誰でもと思う事だろうが、私も、神と自然に生かし、生かされていると思う。若い時は祖国の平和統一のために頑張ってきたが、今は1人の画家として生きたい。地球が人間の故郷という時代になったが、今だ解らないことが山ほどある。芸術は未完で始まり、未完で終わるのであろう。しかし創造は戦いだが、苦悩から喜びを味わう幸福だ。人間は自然から生まれ、自然に帰る。表現できる才能を与えられ神と自然に感謝を捧げる。」と呉日は語った。
 芸術に生きることは贅沢なことだ。生きて感動を与えることが、芸術家の目的である。その熱情が恨(ハン)を凌駕したのだと思う。

<在日の痛ましい断面>

彼が生きた南北分断による在日の生の痛ましい断面を語るには辛い。呉日は朝鮮新報社で乗用車の運転手を7年務めながら商工新聞に政治漫画と4コマ漫画を描いていたが、対話のない生活には耐えられなかった。
 1965年頃から激化しだした中ソ論争は、必然的に組織の内部に深刻な事態を及ぼし、権力闘争となって分裂・粛正の嵐は容赦なく反対派を弾圧した。その中には分派とは無関係なものも数多く含まれていたが、呉日もその1人であった。 生来の性格が災いした。何でも喋ってしまう男であると、危険分子扱いされた。祖国の平和統一のため、革命に生きるか、芸術に生きるか、迷いながら、ひたすら絵を描くことに情熱を注いできた彼は、ある日突然、民族虚無主義のレッテルを貼られて査問に掛けられ、数人の同志から無理矢理大量の薬を飲まされた。そして精神病院の独房に監禁され、自殺未遂を5、6回も繰り返し絶望的な日々が明け暮れたが、死にきることが出来なかった。それ以来彼は結婚も出来ずに精神病院を往復して、今も安定剤を飲んで昨日の忌まわしい記憶を忘れようと生きて、この世の地獄と天国とその中間の絵を描いているのだと語った。イデオロギーが著しく人権を犯し、痛め傷つけた不幸な歴史、私の道程にも少なからず同じ境涯があったので胸が疼いた。呉日の絵は民族史、在日同胞史を語る絵であるといえる。

<人生は闇>

 人生は闇なのだ。だから希望という光がなければ耐えられないし、生きられない。画家も常に十字架を背負い、一生死闘を繰り広げる求道者である。生の審判が下されるまで逆境の中で人生の孤独と愛の歌を訴えるのは、人生がテーマであるからだ。人生は旅である。生まれてから死ぬまでの旅である。一人暮らしで流されながら生きてきた呉日が、人生は「無」と解ったという。「有から無は生まれるが、無から有は生まれない」真実は虚しい。だが、その虚しい「無」の壁を超越せんと人生に臨むのは創造の喜びがあったからだ。生と死の悲しみや苦しみを背負い、光を求めてトボトボと浮遊し、光明を求めて漂泊する旅人。生と死を深く見つめるための修行者となって出家したのだとも言える。それが人生というのでは余りにも淋しすぎる。呉日は自身の苦労は大したものではないと思っていると私に語ったが、在日の大方の人生は悲しいことに似た話が多くありすぎるのは痛ましい限りだ。
 呉日の絵は素朴、簡潔、直裁で明るく楽観的に見える。しかし、その裏には淋しさを紛らわせるため、生きる喜びのため、楽しむために描かれているように思われる。望郷の抒情と故郷への夢の中の郷愁(ペーソスとナイーブさ)が滲み出ている。また何故か孤独で淋しさの中の恐怖への想いと、ブラックユーモアの中にシリアスな抗議と憤怒が漂う。内在する恨(ハン)が表出して画面から飛び出して来るように訴えるものがある。我々が共感するのは闇の中で生きた在日の魂が疼くからだ。
 呉日は思想を表現して思想に生きる芸術家を目指したが、思想だけが唯一の生きる道でないことも真実である現実に戻ったのだ。宇宙原理に運命を委ねる真実とは何か。呉日が求める永遠のテーマでもある。

<呉日の略歴>

呉日は1939年12月25日に広島で生まれた。1961年から68年に日本アンデパンダン展出品。(1961年故郷の母、62年煙突のある風景、67年犠牲者・燃え上がる4月、65年農夫・牛、66年鳥と少年の出品記録が私の手元にはある)1962年から2004年まで自由美術展に44回出品。そして佳作賞を2回受賞。現在自由美術協会会員である。1964年から66年在日朝鮮青年展、1964年から68年平和美術展、1983年から86年黄土展に出品し、個展も2004年まで35回を開催している。
1945年、呉日は祖母に連れられて韓国に一時帰国して、6年間故郷(本籍地・慶尚南道居昌)にいた。祖国で解放の喜びを味わったのだが、その5年後には朝鮮戦争が始まり、分断の祖国の惨状を見ることとなった。呉日の絵画のルーツはこの頃から全てが始まっていると思える。幼少期に体に染み込んだ故郷の印象、呉日の哲学と人生観はこの祖国で目にしたものが全てであり、その望郷の記憶が年老いても鮮烈なのであろう。故郷を後にした12才の時、対馬から鹿児島へ、そして大阪、転々として東京へと辿り着いたのである。在日と祖国との狭間の中にあった歴史の不幸が呉日の絵画様式であり表現であるとも言える。

<呉日へのエール>

「呉日さんの絵画はこざかしい技巧の積み重ねで人の気を引く世界ではない。それは真っ直ぐ凝視する眼差しによって喜びも哀しみも、絶望も希望も、呉日さんの心の湖に波立ちながら映っている。それは在日コレアとしての避けがたい波立ちの、いわば恨(ハン)を起点としている。在日に対する(または在日同志の)差別、少年の時に帰郷したときの強烈な体験、そして中ソ論争を契機に起こった在日同胞同士の悲しむべき悲劇、それらの苦しい道筋の中に呉日さんの抑えきれない感情が描き出した線があり、記憶や郷愁が絞り出した赤い色彩があり、怒りに膨らんだ表情がある。呉日さんの世界は、今世界中で苦しみながら、それでも生き抜こうとしている人間達の心と結び合い、共有されていくのだ。私には呉日さんが闇夜に消されまいと火をかかげて、神を探している人のように見える。どんなに苦しくとも絶望したり、虚無主義者になったりはしないで、絵画という手段を通して、人間の生命の有り様を凝視し、希望への道を求め続けている画家だと信じている。」呉日さん頑張れ、こんな時代に負けるなとヨシダヨシエ(美術評論家)は応援する。
 骨や髄、歯茎までに染み込んでいる恨(ハン)の感情。歴史的な不運や災難。運命に振り回され思い通りにならない、力が及ばず、常に戦争と過去に囚われる感情・恨(ハン)。それは私にもある感情であり、日本人にもある感情であると思われるのは時代の共有感からであろう。
 私と呉日は境涯こそ違えども、在日を共有して生きたことの事実は何ものにも代え難い共感の価値である。来世に希望と光を、そして夢のある人生を願い、祈り呉日は歩む。私も共に今歩んでいる。

 呉日氏と自宅にて

2005.5.13 東洋経済日報一部掲載

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