◇文承根 追憶・一筋の光を残して◇
 (ムン・スングン)

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追憶・一筋の光を残して


・はじめに

 私は1982年春、全和凰画業50年展をソウル文芸振興院美術館で開いた。解放後、在日同胞を初めて韓国で紹介した大展覧会で、これが契機となり祖国の美術界が在日の美術家の存在に関心を向け始めたと言っても過言ではない。

 そしてその年の秋、徳寿宮の国立現代美術館で在外作家招待展が開かれた。その時、私は在日作家の推薦を依頼され全和凰、郭仁植、李禹煥、郭徳俊を紹介した。そこにもう一人、私の知らない作家、文承根が推薦招待されていた事を知ったのは後の事であった。文承根については在日の二世、京都在住の作家であるという情報だけであったが、私は新鮮にその名を記憶に留めていた。


・文承根追悼展

 19847月の事である。郭仁植先生から「ギャラリーQで文承根追悼展を開いているので見てくれないか。」と電話があった。私は急ぎ郭先生が待っていらしたギャラリーQに向かった。

 「惜しかった。文承根は病気の為に余りにも早く亡くなってしまった。これからが楽しみだったのに。」と我が子を亡くしたかのように郭先生は呟かれた。不覚にも私の記憶に文承根が刻まれた1982年に彼が既に逝ってしまった事を郭先生から電話があるまで知らなかったのである。

 「河さん、一点だけでも良いから文承根の作品を買い上げてもらえないだろうか。」と郭先生は申し訳なさそうにおっしゃった。私は展示されていた作品の中から12点をコレクションする事に躊躇なく決めた。「有り難い。遺族の生活の事があるので頼んだのだ。助かった。」と我が事のように感謝されていた。

 私は郭先生と文承根との関係や縁については何一つ聞かされていない。同じく、ただ美術の道を歩む在日二世、文承根に対する天賦の才を郭先生は確信していたようで、その早すぎる死に無念さが滲んでいた。私は郭先生に文承根の遺族に会いたいからと消息を尋ねた。「この追悼展の作品は奥さんの手元にあった物であるが遺族の消息は、今はわからない。」と答えられ、この追悼展の為の文集を渡された。文集の中には李禹煥先生の一文があった。その一文によって文承根と李禹煥先生との縁故を知る事となった。

 その後の198611月、李禹煥先生と初めてお会いする機会を得た。その時、私は文承根への一文を思い出し、その事をお聞きした。「いつも何か痛みを持ち続けながら製作に挑んでいた。文承根は才能があった。惜しい友人を亡くしたと思っている。同胞として、先輩として何故、生きている時に温かい言葉をかけてあげられなかったのかと今も自責の念に駆られている。」と言った。文承根との一期一会の出会いを語る肉声は震え潤んでおり、李禹煥先生の文承根への強い想いを感じた。

文承根を偲んで198494日から30日、文承根展(梁画廊・京都)。そして1986年2月4日から16日、86‘射手座企画展 読むオブジェ 文字と物質(ギャラリー射手座・京都)が行なわれ文承根と共に建畠哲、河口龍夫等10人が出品し、追悼した記録がある。以後、文承根は韓日の画壇から忘れられた存在となった。

 私は縁あって1993年、開館間もない光州市立美術館に在日作家(全和凰、宋英玉、郭仁植、李禹煥、郭徳俊、文承根)の6名の作品212点を寄贈した。ギャラリーQでの追悼展でコレクションした文承根の作品はこうして祖国の美術館に収蔵され、名を記すこととなった。


・追悼

 東京国立近代美術館学芸員(美術評論家)、千葉成夫氏は「文承根という部屋は河正雄コレクションの巣の中では、一番小さい、ささやかなものである。それは彼が34才で夭折したからである。在日二世として生まれた彼は始め、藤野登と名乗り病と表現とに悩み、苦しみながら、しかしそのことをあまり表に出すことなく、作品の展開も十分に遂げることができずに、癌のために死んでいった。雨の日に濡れて曇った窓ガラスをこすると、戸外の風景の一部が多少ぼやけて見えたりするが、彼の作品の中にそんな感じの版画作品がある。彼の生そのものが、それに似た印象を残しただけで、火を消した。河正雄コレクションの在日作家の六人の中で、唯一の純粋戦後世代作家だったのに。」と惜しんでいる。

「文承根との出会いは一度きりであった。文承根のストイックで禁欲的な作品が好きで、今でも絵を掛けているファンの一人である。特に色彩、グラデーションの繰り返しの作品は印象的で、作品から文承根という人間自身が伝わって来るように思う。自分も作品を作り発表してきたが、決して真似できないものだった。」と芦屋市立美術博物館学芸課長・河崎晃一氏は文承根を追憶している。

 翌年、光州市立美術館より河正雄寄贈作品集の編集を頼まれたが、私の手元にある文承根についての情報や記録は余りにも少なく、唯一収集した顔写真一枚は淋しげで虚ろな表情が、何とも心に引っ掛かり、その時の作家紹介文は頼りなく中途半端なものであった。在日の幻の作家と言ってもいい存在であったから文承根の存在は常に気に懸かるものであった。

・甥文清治との出会い

 20015月、光州市立美術館では光州民衆抗争二一周年を記念して河正雄コレクションによる「光州の記憶展」を開催した。在日画家の金石出、日本画家の富山妙子、韓国画家、パク・ブルトンの三人展である。この企画は韓国では初めてのもので80年代に在日、日本、韓国、の3人の画家が光州民衆抗争をテーマにした作品を製作し2000年代になって始めて公開するということで大きな話題になった。

 そのオープンの日、日本から一枚のFAXが届いた。「私は京都の文清治と申します。文承根の母親、河福姫が河正雄先生のことを探しております。」という私が長年探し求めていた内容のものだった。もう文承根との御縁はないだろうと諦め、忘れかけていたところに届いたこの報せに改めて不思議な御縁を感じながら、京都に出向した。FAXの差出人は文承根の甥であった。子供のいなかった文承根は死の間際に文清治を養子縁組しようと家庭裁判所に手続きをとり認可の判決が出たのだが、その手続き中に亡くなってしまった。だから文承根は自分の父のように思っていると、彼は語った。

 文承根の母親、河福姫は私と同じ本貫晋州河氏、慶尚北道判順の出身、私の母の一つ下で1921年生まれであった。甥の文清治、母親の河福姫の口から明らかにされた文承根の出自、生い立ちと闘病の事を綴ることにする。


・生い立ちと闘病

 父、文亀煥は本貫南平文氏、大邱出身、文承根は1947129日、上に兄と姉、下に妹の次男として石川県小松市で誕生した。4〜5年小松市に居住した後に京都札の辻に移転。父は織物やいろいろな品物の販売をして八王子や相模原を転々とした。その頃、母は紡績工場に勤め、文承根は豆腐を売り歩き糧を得ていたという。その境遇が秋田で少年時代を過ごした私自身とダブり涙が溢れてきた。生活のために私も小学生時代に豆腐、コンニャク、トコロテン作りのアルバイトをしていたからだ。文承根が小学校5年生くらいの頃になって父の事業(貿易業)が成功し、徐々に不動産業、金融業等に手を拡げていった。

 文承根は小学校4年の頃から柔道を始めていたが、6年生の頃、練習の最中に体の不調を訴え病院に行ったところ、腎臓の病気が発覚した。その際、柔道をやめるよう言われたという。

 文承根の小学校卒業と同時に一家は大阪に引っ越しをした。文承根は中学校に入学した(在籍していた学校名は確認出来なかった)が定期的な通院を余儀なくされていた。中学3年の頃、白い小便が出て大阪の日赤病院に緊急入院し手術を受けた。

 文承根は大阪府立天王寺高校を2年で中退した。その後、学校の近くにあった大阪市立美術館付属美術研究所で約二年間、デッサンなどを学び美術の道に足を踏み入れていたという。19歳の頃、再び京都に引っ越し京都の日赤に入院。週23回の透析は一九七七年頃から受け始め、入退院を繰り返しながら作家活動をしていた。透析の費用は月額6070万円位で主治医の勧めで、区役所に申請すると透析の費用が無料になるというので、高額医療費の還付を請求するために区役所に行ったが、社会保険をかけていなかったため一部認められなかったようでその為に病院の費用は父の亀煥が捻出していたという。

 1975年、文承根は白子(本名・萩野和枝)さんと結婚した。結婚後まもなく学校に絵を指導に行くようになり同時に絵画教室も開いていた。文承根が指導していた絵画教室はスタジオンという名で自宅の一階部分のアトリエで教えていたようだ。学校は2年制の昼間部を教えていたという。京都芸術短期大学か、レイデザイン研究所もしくはマロニエのいずれであると思われる。

 文承根は父が経営するサウナ風呂(本格的に絵を始めた頃、そのサウナ風呂で女性をモデルにして8ミリ映画を製作、発表した。リアルタイムで発汗する様の映像は生身の刺激的なものであったらしい。始めは映像作家を目指していたのかもしれない。)や飲食店(京料理・割烹)等を体調の良いときに手伝い、画材等の購入をしていた。一時、山科にアパートを借りて住んだり、東京の福生に友人達と部屋を借りて住んだりもしていたようだ。その頃、京都の親戚が経営する国際ナイトクラブ「交差点」の壁面に当時のお金で200万円程を貰い油絵を描いたり、親しくなった日赤の先生に頼まれ絵も描いたりもしていたようだ。

・還らぬ人

 西大路九条に父が3階建ての家を建て、文承根はその1階部分を住居兼アトリエとした。その頃、よく遊びに来ていた絵の仲間達は具体美術に所属している人たちが多かったようだ。彼らはボロボロの汚いジーンズを履き、ヒッピーのように髪と髭を伸ばし、当時の文承根も同様の格好であったようだ。よく酒を飲んでは芸術論や絵画論で喧嘩をしており、若さと情熱がたぎる良い時代であったようだ。

体を案じた母親は「こんな体では長生きは出来ないだろう。」と彼を不憫に思い、そういう事を考えると夜も眠ることが出来ず、胃を悪くしてしまったという。しんどい体に無理をしたらいかんと言ったら、絵を描いているからこそ、しんどさや病気の辛さを忘れる事が出来る。生きる為に描き教えているのだと言った。床から起き上がることの出来ない体力でありながら人前では決して弱音や痛みを見せる事も無く、人の気遣いを逆に気遣う。芸術的無知や一般的有識からはひどく外れているように見えていて美術に対し、実は先頭を切って走っている自負と覚悟があったようだ。「登は小学校12年生の頃から学校から帰ると1人で黙々と絵を描いていた。頭が良くて、性格が良くて素直なこんな良い子が早く死ぬなんて。」と運命の理不尽さを嘆きながら母・福姫は語った。

 意欲的な作家活動と闘病生活の中、病状は悪化していった。文承根は亡くなる数ヶ月前から、梅原猛の「仏教の思想」、阿含宗の本など仏教関係の本を多く読んでいたという。迫り来る死を予感していたのかもしれない。最後には文承根は膝を立てたままの姿で硬直し、その体を父親、文亀煥は摩りながら「アイゴー、アイゴー」と必死に息子に呼びかけていたという。程なく救急車に運ばれ翌日、還らぬ人となった。

 文承根の死後、白子さんは保母として保育園に勤めていたというが、奥さんは故人への想いを一切断ち切るためなのか文家には連絡をとらなくなり、消息が途絶えたという。

「奥さんの資料の整理の仕方を見て、本当に深く文さんを愛していたと感じた。2人は似合いのカップルであった。お互いに尊重し合い大事にしあった夫婦であった。そんな二人に私は好感を抱いており、文承根の作品が好きになった理由の1つにもなっていた。」生前、折々に交流があり、葬儀にも参列した京都国立近代美術館学芸員・河本信治氏は語った。

残された数少ない写真の中に結婚式の記念写真があった。その写真には媒酌人として出席していた若き日の郭徳俊御夫妻が写っており、人の繋がりの不思議さを思わせた。

 文承根の遺骨は京都にある東福寺・塔頭の万寿寺(東山区)に長い間、納骨されていた。万寿寺の故尹一山和尚様とは85年秋田の乳頭温泉郷で偶然、お目にかかったことがある。一期一会ではあったが、ご縁深いお方である。1997年になって、甥の文清治が大阪府柏原市の御堂総本山柏原聖地霊園に墓を建て文承根の父と共に埋葬し祀ったという。父、文亀煥の懐の中で共に安眠していることを確認出来た事で私は胸を撫で下ろすことが出来た。

・在日に生きる苦しみ

 文承根の境涯の中には色濃く戦後の在日の歴史、ひいては家族哀史が滲んでいる。青年期、日本人藤野登として振る舞い、韓国人文承根として名乗る事が出来ず悩んだという事は在日として生きる者の踏み絵である。絵を描くことを生きる全ての手段にしたことで吹っ切り、文承根は自己と民族的アイデンティティを確立し彼の世界を創造した。在日を生きる辛さ、苦しさ、そして病いをも宿命とした。彼は、どうしようもない苦悩の全てを受け入れ生のバネにし、人生の闘いに挑んだんだが、病に勝てず早逝された。

 私の場合は画家になりたいと望んだが、それでは生活が成り立たない、まず生きなければならないという事で心ならずも画家への道を断念した。在日の歴史の中にはこのように、時代に阻まれ境遇に押し潰されたいろいろな形の志と人生の無念さが色濃く漂っていると言える。私と文承根の生涯も道は違えども、そのようなものだったと思われる。

 文承根は60年代後半の具体展のリーダー吉原治良に認められ、具体の新人展に出品するようになった。文承根の美術界へのデビューは1968年。その翌年には第五回国際青年美術家展で、その非凡さを顕わし、李禹煥が大賞、文承根は美術出版賞を受けている。1977年には第1回現代日本版画大賞展でアルシュ・リーブ賞を受賞した。印画紙の上に現像液を染み込ませた刷手ではいた刷手目の中に日常的な点景である「車の中から見える風景」は写真製版を効果的に使い異質の視覚的空間を作っている。その作品は版画界に新風を吹き込んだ。韓国に進出しソウル国立現代美術館でのエコール・ド・ソウル展、韓国現代版画・ドローイング大展、ソウル版画ビエンナーレなど発表の場を広げ在日を代表する現代作家として世界にデビューする目前に、一筋の光を残して、まるで流れ星のように儚く消えていった。それは余りにも無慈悲な旅立ちであった。

・遺されたメッセージ

 文承根が亡くなって23年となった。この度、2004年光州ビエンナーレ記念光州市立美術館主催河正雄コレクション「文承根展」(会期2004911日から1010)が開催される。韓日美術史の中で彼の画業を見直し、問い直し、偲んでみることは意義のあることである。郭仁植、李禹煥、郭徳俊、そして6070年代に親交のあった今井祝雄、植松奎二等多くの人々に愛され惜しまれた文承根はかけがえのない星であった。現在においても彼の息吹は新鮮に、我々の感性に響くことに気付くはずだ。長い間、幻の中で彷徨っていた文承根の画業が新しい生命となって甦ることであろう。

 彼は疑いなく、コンテンポラリーアートの先駆者の一人である。モノ派、モノクロ派の源流の中で忘れてはならない画家である。最近ではあるが7080年代の作家の見直し論が興っている。1〜2年前には文承根の作品が京都国立近代美術館、大阪国立国際美術館、千葉市立美術館で収蔵された。未確認であるがブルックリン美術館や京都市立美術館、クラコワ(ポーランド)国際ビエンナーレや香港での国際展に出品された作品が彼の地に収蔵されているとも聞いている。生前には栃木県立美術館、そしてソウル国立現代美術館にも収蔵されたことは、我々の心に灯る光明ではなかろうか。

 遺された文承根の作品はその先駆性と天賦を現代美術史の中で光とメッセージを発し続けることであろう。



河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる」明石書店(2002.3.25)
本文一部訂正(2004.7.6)

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