◇全和凰(ぜん・わこう)◇
  韓国名(チョン・ファファン)

1909 平安南道安州生
1929 朝鮮美術展覧会入選
1945 須田国太郎に師事
1949〜1995 行動展出展
1951 行動美術賞受賞
1977 パリ・ル・サロン展
1982 全和凰画業50年展
(東京、京都、ソウル、大邱、光州)
1993.10.7 永眠

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全和凰画伯を偲んで

過ぎ去った時代の屈折の中で、数多の在日韓国人は日本の空を流浪する亡国の旅人となった。万の辛苦と苦痛に耐え忍び戦後の貧困と偏見の中でも、粉骨砕身ただ一筋の光を希求しながら祖国の宿命と共に耐え抜いてきた。

それは、“雑草の中の花”のような永い永い苦悩と試練を超え平和の念願と望郷の夢で凝縮された在日韓国人の実像を、まさに全和凰の芸術がすべてを表している。

いわゆる在日韓国人2世として真正の魂のルーツを失っていた私は、彼の作品に初めて出会った時、激しい感動と戦慄におそわれた。それ以来“その祈りの芸術”を誇らしく光の注ぐ場所に出して、広く世の中に紹介し、守り、育成していかなくてはならないという、義務感と使命感のようなものを感じて生きてきた。

私は、父母の故郷である光州市立美術館の積極的な要請に応え、収集した大部分の在日同胞の作品を寄贈、93年そして96年に「祈りと求道の芸術---全和凰回顧展」を開いた。

そして97年には、第2回光州ビエンナーレ記念展で全和凰の真髄をより広く国際美術界に紹介することができ、真に胸熱く歓喜をおさえることができなかった。数百万の在外韓国人の貴重な記録であり、歴史であり、文化遺産である全和凰の芸術世界が深い共感と共鳴をわかちあったからだ。

全さんはホトケさんを描く重鎮画家として、日韓画壇で広く知られている。

全さんの描いた「弥勒菩薩」や「百済観音」「阿修羅像」は生きているようである。また全さんは「花の美しさよりも花の精を描きたい」と「牡丹」や「雑草の中の花」なども好んで描いた。それは人間の煩悩を知りつくした、求道心と信仰心の強い、静かでおおらかな姿である。全さんは苦しみと悩みからの解脱を仏陀に求めたようにも思えるが、現象や物事をしのぐより深い精神性の高い芸術理念(対象と自己を静かに対立させる)の具顕は説得力を持っていた。「祈りの芸術」と評され、「宗教的な詩情」を漂わせた風土性(現代美術に欠如しているもの)の濃い表現だ。

「高麗青磁の淡くあたたかな白濁の美しさがある」と寺田透は評し、「この画家の画の上質のものには朝鮮の古い伝統につながる静けさや淋しさがそこはかとなく感じる」と谷川徹三は評した。

全さんの真摯な生きざまには、不幸であった祖国と日本との狭間の中での苦悩にみちた、沈痛なる生の闘いが綴られている。

1909年平安南道安州に生まれ本名を鳳済という。20歳で朝鮮美術展に入選し、東亜日報、朝鮮日報に童話童画を発表した。「そのころ、日本の憲兵や警察の圧力はたいへんなものでまともな人間生活はできないような状態で、我々朝鮮人はいかに生きるべきか、この問題を解決しないでは絵を描けないと悩みました」。

26歳の時、西田天香の「懺悔の生活」を読んで出家、托鉢行脚の修行の途につき1939年、京都の一燈園に入園した。「当時の青年たちが誰もが体験した植民地政策のせいであったが、私は絵筆を捨てて一燈園に飛びこんだのです」。

そこで運命的な師・須田国太郎との出会いが日本での画家としての出発点となる。須田国太郎から作風に大きな影響を受け、また京都で幸運な仏像たちとの出会いともなるのである。

1947年「一燈園風景」で京展賞、1951年「群像」で行動美術賞受賞、53年には行動美術会員となる。この時代の代表的な作品には「カンナニの埋葬」「避難民」「アリラン峠」「再会」などがあるが、モチーフは祖国の惨状であり、社会的なテーマを描いた抗議の作品である。50年に描かれた「ある日の夢・銃殺」(京都市立美術館蔵)は3・1独立運動の一場面であるが、祖国や現実の社会の矛盾に向けた代表作である。これらの作品の特色は観念主義でも政治主義でもない。精神的な詩情を漂わせた本質的に自由人の魂を強く印象させる表現主義である。
1996年10月30日から14日まで光州市立美術館で全和凰展が開かれた。

1950年代から80年代までの代表作92点の展示である。これは93年、私が光州市立美術館に寄贈した在日同胞作家全和凰、郭仁植、宋英玉、李禹煥、文承根計6名212点のうちの全和凰の全作品である。「この機会にぜひ、期間中に光州市立美術館を訪問して下さい」と案内を差し上げたのが9月中旬のことであった。

10月8日午後10時過ぎ、「全ですが」と電話がかかった。私は全さんが光州に出掛けてくださる返事かと思って受話器を取った。全さんの奥さまからの声であった。「10月7日全が亡くなりました」とのしらせ。私は動転してしまった。2年前、「レスチンで120歳も可能」(燈影舎刊)という本を出版された時「私は120歳まで生きる」と元気に話されたことが夢幻のようであった。

20数年前のこと。新宿のデパートに向井潤吉の「民家」の絵が掛かっていた。ファンであった私はその絵を求めようとした時、その並びに全和凰の「弥勒菩薩」が掛かっていた。その出会いは運命であり、因縁であった。私はその「弥勒菩薩」との出会いが縁で全さんの作品をコレクションすることとなったのである。

82年、全和凰画業50年展を企画し、東京、京都、ソウル、大邱、光州と巡回展を開き、そのとき「全和凰画集」(求竜堂刊)をも発行し、私は全さんの美の心酔者となったのである。

人生を共に生き歩んだと言ってもはばからない。全さんの心の遍歴が共感となり、わが父母の苦難、在日が、祖国が共鳴したからだ。

「私は、世界は一つだと思っています。北とか南とかいうのはまちがえていますよ。私自身は政治に関係ない。ただ雑草のごとく、根強く生きながらやっぱり平和を望む生き方をしたいんです」。全さんのヒューマニズムは純粋な人類愛、世界平和への高邁な理想として残したことを祝福して送りたい。ご冥福をお祈りする。

統一日報 1996.10.15



寺田透(評論家・フランス文学者)
谷川徹三(哲学者)
西田天香(「懺悔の生活」の著者)
一燈園(西田天香氏により創始される)
須田国太郎(日本の洋画壇に多大な影響を与えた西洋画家)

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