◇わが友西木正明君◇

自宅にて西木君と

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わが友西木正明君・直木賞受賞に寄せて

 中学、高校時代に「家に遊びにおいでよ」と誘われて、三十数年にもなる。わが友・西木正明君の直木賞受賞を祝い、西木村名誉村民章を受けるとの知らせを聞いて、九月十日初めて西木村の生家を訪れた。ご両親が暖かく出迎えてくださり、念願叶った思いであった。

 生家は草葺の大屋根で、百年以上にもなる秋田の伝統ある、堂々とした民家であった。土間は土の香りに満ちて懐かしかった。六千六百平方メートルにも及ぶ敷地には樹齢数百年のトチの木が豊かな実を実らせていた。紅葉がほんのりと化粧を始め、栗の実も膨らんで秋を告げていた。

 中学時代、角舘地区や仙北地区の写生大会、陸上大会、ジュニアレクリエーションで彼と出会ったことから、高校時代の夏休みには、トロッコに乗って玉川、八幡平、駒ヶ岳の山々を巡り、田沢湖でよく遊んだ。そして青春の夢を描き、語り合ったものである。

 彼は西明寺中学から秋田高校へ進んだ。私は隣町の生保内中学から秋田工業高校へ。学校も住んだ地域も違ったが、その時の出会いが社会に出てからも切れることなく、縁は続いて今日に至ることとなる。

 私は第二次世界大戦が起きた年に大阪で生まれた。生後六ヶ月のとき、母におぶさって生保内の高野に移り住んだ。父が先達発電所や玉川の水を田沢湖に引き込む隧道工事の労働者として従事したからである。家は掘っ立て小屋で、戸はむしろであった。食糧事情も悪く、寒さとの闘いでもある生活は容易ではなかったと、父母は語り聞かせてくれた。

 高校時代、正明君が登山の帰り道、我が家に立ち寄ったことがある。そのとき我が家の生活を見て、私が在日韓国人二世であることを知ったようだ。私はそのことにこだわりがあったが、彼は何のこだわりも持たず、そのことに触れることもしなかった。

 それから十数年たってからの話である。「一度韓国に行ってみてはどうだ。自分の目で触れてみることは良いことだぞ。良い国だぞ。」と、祖国を知らない私に語りかけたのであった。彼はその時、第一線の記者で、取材のため既に韓国を訪問していたのである。

 「日本に生まれ、日本に育ったのだから、日本人となんら変わらないようだが、日本での生活は異国での生活だもの、大変だったろう。」−そのときの彼の思いやりといたわりの言葉は忘れることが出来ない。彼は既に私を理解し懐にしっかりと抱いていたに違いないと思った。

 彼が山に出掛ける時には、首に必ず一、二台のカメラがぶら下がっていた。当時、中学、高校生がライカやニコンなどを持つことは大変な時代であった。そのカメラで故郷の雄大な自然を写し、多くのスナップを残してくれた。現像まで自分でやり、構図もしっかりとした写真は、現在も私のアルバムの中で色褪せずに輝いている。一枚一枚、彼はレンズを通して故郷の自然を見つめ、ヒューマンな視点にピントを絞っていたのである。その時のカメラが彼の記者生活はもとより、小説の世界でも生きている。そればかりか、奥さんの幸子さんを射止めたのもカメラであった。

 「場面描写が的確で、構成と文章がしっかりしているのは、足をかけた取材による。」これは直木賞授賞式での村上元三氏の言葉である。その時、西貴君は図らずも受賞挨拶の中で「私は世の中の俗なる成功者には興味がない。社会の底辺で虐げられ、挫折と苦悩に生きる圧倒的多数の人々に共感がある。」と述べ、また西木村名誉村民章授章式の謝辞でも「太平洋戦争の時代をもう一度見詰め直し、現代の豊かさは何であるのかを書いてみたい。と力強く頼もしい言葉を述べた。

 私は今日まで彼と友情を培い合えたのは、温もりの心で弱者と時代を見る人間性豊かな資質に他ならず、それは私との関係のみならず世界との関わりにおいても同じであろう。そしてインターナショナルな彼の感覚と思考は時代が必要とするものなのだろうと思う。

 受賞作「凍れる瞳」の主人公、スタルヒンや「夜の運河」のアラムに寄せる彼のヒューマニズムには普遍性があって、強い共感を覚えるのは私一人だけではないだろう。忘れてはならないのはロマンである。いつの時代にもロマンがなくてはならない。そのロマンがあればこそ、生きていく勇気も湧くといえる。彼の小説にはロマンをかき立てる魅力が満ちている。

 郷土の自然が彼を育み、西木村の村民が彼を誇りにすること、そのことは全て作品が雄弁に語っているものと思う。

 祖国、韓国ではソウルオリンピックが開かれた。この一世紀、祖国は不幸の連続であった。しかし弛まない努力の末に経済発展を成し遂げ、国際的にも国家として認められたことの結晶がソウルオリンピックだ。世界の人々がたくさん訪れて真摯なる我が民族の平和と繁栄、友好と親善にかける熱い想いを感じてくれたものと思っている。西木君とは数年前から韓国に行く約束をしていたが、この十一月には実現できそうである。どのような感慨を今の韓国を見て得るのか、今から楽しみである。

(秋田さきがけ新聞 1988.10.4)

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