◇忘れえぬ師◇
忘れえぬ師 甲子園大会が終わると、日本と韓国の高校選抜チームが親善交流試合を行なっている。隔年毎に日韓交互に訪問しあい、スポーツを通じて相互に理解と友情を深める、またとない良い機会となっている。 一九八六(昭和六一)年のことである。韓国高校野球連盟から依頼があった。 「今年は東北地方五都市を廻って親善試合を行なうが、選手たちにパワーをつけるためには、食事にキムチが欠かせない。何とか手配を願いたい。また同胞達の応援が、選手達にとって何よりの力となるので、声援をよろしく頼む。そして通訳を頼みたい。」 私は秋田大会を前にして、秋田空港に選手団を出迎えた。その空港で秋田工業高校一年生の時の担任、松田幸雄先生と再会した。松田先生は、現在、母校の校長であり、秋田県高体連の会長をも務められており、韓国選手団歓迎のため空港に出迎えに来られていたのである。 先生は私が韓国語の通訳をすることに驚かれたが、立場を異にしながら師弟が共に日韓親善のために寄与していることをとても喜ばれた。バックスタンドで一緒に観戦しながら、祖国韓国のこと、韓国の高校生のことなどについて熱く語り合った。 それからまもなく、上京された先生から電話があった。私は新宿のコリアンクラブで先生と遊んだ。鮮やかに民族衣装「チョゴリ」のホステスが珍しかったようである。チョゴリも美しいと誉めていたが、韓国女性の美しさに目を細めていた。その夜は宿舎の門限を忘れるほど、韓国情緒を満喫されたようだ。 私が、学生の頃、松田先生は授業中、時折窓辺に寄り遠い空を見つめることがあった。遠くに白い飛行機雲が一直線に伸びており、先生は無言でじっとその方向を見つめている。 また遠くにかすかな爆音が聞こえると、急ぎ窓辺に寄り、見えない飛行機を探し求める。そんな時、先生は淋しそうで泣いているかのようだった。 「私は特攻隊員の生き残りだ。戦友たちは皆死んでしまった。」生きていることが申し訳ないと言っては、戦友達を偲んで涙ぐんでいた。忌まわしい戦争を恨んでおり、かけがえのない青春を返せと心で叫んでいるようだった。 先生が母校を退職されるとの報を聞いて、自宅を訪問した。「定年まであと二年もあるのに、何故途中で退職されるのですか。学校のためにも、生徒のためにも、定年まで頑張って教鞭を取ってほしい。」と慰留した。 「もう駄目なんだ。今の生徒は君達の時代のように純真で素直ではないんだ。教育に情熱がなくなってしまったんだ。」教育現場の崩壊、社会の風潮を嘆き、自身がなくなったと言う。先生が一回りも二回りも小さくなっていくように思えた。 今、先生は秋田の空でラジコンを飛ばしている。戦友達のことを思いながら、病魔と闘っているという。戦争というものが先生の心を蝕み、その傷跡が今も食い込んで疼いているのだろう。 松がとれた今年の正月十日、私は文京の白山にある故大井潔先生宅を訪問した。先生のお宅は歴史のある緩い坂道を上り詰めた所にあった。古きよき時代の香りが感じられる風情ある佇まいが印象的であった。 通された奥の間に飾られた祭壇の遺影が、先生との始めての出会いであった。私が二十数年来抱いていたイメージ通りの慈悲深いお顔で、明治人の気品が強く感じられ、初めてお会いしたとは思われなかったのが不思議で感慨深かった。 一九五九(昭和三四)年、この年は鍋底景気と称された大不況であった。高卒までの二年間を担任された青海磐男先生は私の就職問題で最も心を砕いて下さった恩師であり、卒業間際まで就職が決まらず不安な状況の私のために、大変なご苦労をなさった。 恩師の配慮の下、品川で母校の先輩が経営する会社を就職先と決めて、母校を巣立った。必死な旅立ちは真摯そのものであった。 会社の社長はとても親切で、真綿を包むように大事に迎え、指導してくれた。しかし仕事が、私の苦手とする設計のため、一週間で辞めてしまった。その間先輩からは、秋田での生活では口にしたことのないカツ丼や寿司など昼食にご馳走になりながら、思いやりや気遣いなどを理解する余裕もなかった。今考えると恩師の暖かい配慮も意にせず、無謀な夢を追っていたのである。 私が独力で自分の意に沿う就職先を捜して落ち着いた頃、青海先生から、「実は君の就職先は、先代の校長先生である大井潔先生が身元保証人になって下さって決まったんだよ。」と聞かされた。 それから私は大井先生と年賀状での挨拶を続け、いつか直接お会いして御礼を申し上げようと念願していた。ところが、昨年の暮れ突然訃報が届き、わが身の不徳と不明を悔やむこととなってしまったのである。 先生は敬虔なクリスチャンであり、晩年は老人問題にも取り組んで、研究、指導者として活動されたこと、また遺言により献体をなさり、医学の発展にも寄与されたことを知り、改めて尊敬の念を強くした。 終戦後、秋田工業高校の校長として赴任したが、官舎がなく家の中まで吹雪が舞い込む借家生活、寒さの中で衣食にも不自由されたことなど、奥様が秋田での生活を懐かしむように語られ、私との人生の良き因縁を殊の外喜ばれたので、救われたような思いがした。 創立当時の先達たちの血の滲むような苦労を知り、その恩徳が母校の伝統となって、後に続くものに大きな力となっていることを痛感させられ、感謝の念を深くした次第である。 振り返ってみれば秋田工業高校の三年間は、私の人生にとってかけがえのない青春であった。師や先輩達の目に見えない大きな愛で生かされていたこと、また陰となって温かく励まされていたことを感じるのである。 私達は一期一会の出会いに感謝し、私の心に残して下さった多くの誠を噛み締め、大井先生の御冥福を祈って遺影の前を辞したのであった。 (河正雄著「望郷・二つの祖国」1993・成甲書房及び1985.12.1・秋工同窓会誌) |